玄関先で靴を揃える忍の手が、大き過ぎる制服の袖に隠れる。
「それにしてもその制服ぶかぶかね」
 それを見た弓香が堪えきれない様子で笑い出した。
 忍が今着ているのは、一学年先輩の北尾の制服だ。
 とりあえず学校へ戻れるのだとしたら、本当は制服を発注しなければならないのだが、それも定かでは無く、また、新入学の生徒が皆制服を作るこの時節柄、発注したところで、到底復学には間に合わない。  だから、貸してくれた制服のサイズに文句を言える様な状況ではなかった。
 もし北尾にそう申し出て貰えなければ、忍は今頃私服で三学期を過ごさなければいけない処なのだから。
 約一ヵ月半程入院生活の間、北尾と千里は随分まめに見舞いに訪れてくれた。
 千里の方は、交流の無いであろう特進クラスの生徒からノートのコピーをもらってくれたり、教師から授業のプリントを預かったりしてくれた。
 北尾は北尾で、彼の母親からと言って、『必ず枚数が要るから』と渡されたらしいタオル類、寝間着類などを頻繁に持ってきてくれた。
 この二人との交流はおそらくこの先無いだろうと思っていただけに随分驚いた。
 そして、嬉しいと思った。
  …くん! 忍くん!?」
 目の前でひらひらと手を振られ、再び意識を引き戻された。
「どうしたの? 疲れちゃった? お部屋で横になる?」
 弓香が心配そうに忍の顔を覗き込んできた。
「だっ、大丈夫です!」
 あまりにも間近に顔を寄せられたので、思わず掛けていた椅子ごと後ろに退がってしまった。
「そう? 辛かったら遠慮無く休んでね。それじゃあ、コーヒーと紅茶とココアとレモネード、どれがいい?」
 にこにことしながら弓香は喫茶店でオーダーを取る様に、川島家のソフトドリンクのバリエーションを並べた。
「あ…じゃあ紅茶で」
「紅茶ね! あったかいのでいいかしら」
「ハイ」
「ミルク入れる? それともレモン? ジャムでロシアンティーにも出来るし  あ、そーだ! なんならチャイとかどう!? 先週スパイス買ったのよ~」
 どうやら川島家の奥方はなかなか凝り性の様だ。
 何気にキッチンを見遣ると、成る程香辛料や調味料の品揃えがちょっとしたレストラン並みである。
 察するに本日の御薦めは、先週スパイスを買ったと言うチャイだろうか。
 忍が答えに迷っている間にも、弓香はいそいそとスパイスを拡げ始めた。
「お砂糖は入れていいのかしら?」
 どうやら茶葉を煮出す段階で砂糖を入れるつもりらしく、ミルクパンの上に砂糖を掬った匙を構えた状態でそれを訊かれた。
「あ、大丈夫です」
 大丈夫と言うか、忍はどちらかと言えば甘い物好きだ。
「よかった~、宏幸くんは全然甘いのダメだからいつも止められちゃうのよ」
 どうやらここは、オーダーを訊く割には店主の中で既にメニューは決まっていると言う、なかなか乙な店の様だ。
 そうしているうちに、シナモンの独特な香りが部屋の中に拡がってきた。
「お? お茶淹れてんの?」
 背広から着替えるために寝室に籠っていた宏幸が顔を出した。
「ざーんねん! 今日はお砂糖入れちゃいましたぁ~っだ!」
「ええええ!? 茶が甘いのは絶対おかしいだろー!?」
 宏幸が本気でがっかりしている。
「今日はお客様の許可もらってるもーん」
 わざとらしく弓香が『あかんべ』をする。
「えええええええ!? 忍君、何もコイツの趣味に合わせなくてもいいぞ!? お茶が甘いのは変だよなぁ!?」
 泣きでも入りそうな表情で宏幸が忍に訴えた。
「…すみません。俺もどっちかって言うと、砂糖入れてしまうんです」
 申し訳無いな、と思いつつそう答えた。
「ほーら見なさい! ストレートならプレーンが王道だか知らないけど、ミルクティーの類は甘いものなのよ!」
 勝ち誇った様に弓香が笑った。
(これは嘘でも川島さんの味方をするべきだったのかな…?)
 一瞬そう思ってしまう程、宏幸は明らかに凹んでいた。
「あーあ…家ん中に男が増えてちょっと立場が強くなるかと期待してたんだがなぁ」
 宏幸が苦笑した。
「正義は勝つのよ~」
 弓香が歌う様に言いながら、キッチンの中をくるくると動き回っている。
 どうやら彼女は、蒸らしの時間を使ってお茶請けの準備をしているらしい。
「すみません」
 宏幸に申し訳なく、忍は頭を下げた。
「え? あ、ごめんごめん、気にすんなよ。いつもこんなんなんだ。口で言ってるだけで楽しんでんだよ」
 宏幸が先刻とは違う意味で苦笑した。
「ハーイ、お待たせしましたぁ~」
 そんなタイミングで弓香が、チャイと人数分小皿に盛られたクッキーを持ってきた。
「キミ、こんなオジサンの言うこと真に受けちゃダメよ! さぁ、どうぞ召し上がれ」
 手作り風の陶器のカップは一客一客形が微妙に違っていた。まじまじと見ていると弓香がその視線に答えてくれた。
「それ、私が焼いたのよ。こないだ陶芸の体験教室行ってきてねぇ、オーブンで焼ける陶器とか言うの習ったの。ちょっといびつでしょ?」
「はあ」
 確かにそれは歪ではあったが、そこが妙にあったかい雰囲気だ。
(作品は、作った人に似るって事かな)
「それにしても、忍くん荷物少なかったねぇ。ホントにあれだけ?」
 忍が借りる予定の客間の前のボストンバッグを指して、弓香が言った。
「ほとんど焼けてしまったので」
「そっかぁ…。じゃあ、これ飲んだらお買物行こう!!」
 勢い余って弓香が立ち上がった。
  は?」
 もう日も傾いていると言うのに、このパワフルさは何だろう。
 忍は返す言葉に詰まった。
「気にしないでくれ。うちの奥さん専業主婦で普段家ん中にこもってるから、たまに人が来るとハリキリすぎちまうんだ。ま、忍君の方にまだ余力があるんだったらつきあってやって」
 隣に座っている宏幸が忍に小声で耳打ちした。
 しかしその宏幸もまた、つい先刻コンビニの前で同じ様な事を言っていたのを思い出し、『似た者夫婦だな』と忍は思わず笑ってしまった。
「ちょっと! 聴こえてるわよ? 誰が引きこもりですって?」
「ぅわっ!」
 向かい側から袖を引っ張られ、宏幸が情け無い声を上げた。
「罰として宏幸くんも一緒に来るのよ」
 宏幸はあからさまに疲れた顔をしたが、忍はそれ以前に『いつ行く事が決定になったのだろう?』と言う事が気になった。
 初日にして宏幸の言う処の『ウチの奥さんすごいから』と言う言葉の意味が理解できてしまった。

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