scene.4

 突然の出来事に、千里の頭は混乱していた。
 その時、自分の身体に何が起こったのか、まるで解らなかった。
 左手を押さえたまま千里はその場に呆然と座り込んでいた。
 深く切れた傷口から流れる血は、いつまでも止まらなかった。
 赤い液体は千里の制服に染み込み、そこから更に洋弓場のラバーコートへ滴り落ちていく。
 赤黒く滲む血溜りが、円を描きながらゆっくり拡がってゆく。 「あれ、千里?」
 不意に、耳慣れた声が背後から聞こえた。
 北尾の声だ。
 どうやら試験が終わったらしい。
 千里は、振り向く事が出来なかった。
「何で座り込んでるんだ? おい?」
 そして、彼はすぐに千里が作った血溜りに気付いた。
 何やら叫びながら駆け寄り、千里を立ち上がらせる。
 そして千里は、真っ青な顔をした北尾に引き摺られ、保健室に連れて行かれた。
 すぐに担任が呼ばれた。
 北尾と、保健医と、担任と、三人は揃いも揃って真っ青な顔で、狼狽していた。
(何でみんなそんな大騒ぎしてるんだろ…?)  千里自身の気持ちが、その状況に一番置いてけぼりにされていた。
 これ以上騒ぎが大きくなる事を懸念したのか、千里を迎えに来たのは救急車ではなく、タクシーだった。
 タクシーには、千里と保健医と担任、そして北尾も乗り込んだ。
 連れて行かれた先は、城聖学園の大学病院だった。

 そして、そこで千里は、左手中指神経切断の宣告を受けた。
 弾けた弦に拠る裂傷は、神経にまで到達していたのだ。

 その時の事は、まるで映画でも見ている様で、ひどく現実感が無かった。
 自分にこんな事が起こるなんて、考えもしなかった。
 目の前に起こっている事は自分の事なのに、全く他人事の様にしか思えなかった。
 千里自身より、よっぽど顔色を失っている北尾の様子が何だか滑稽に見えた。
 それ程、他所事の様にしか感じなかった。

  何が起こっているのかな。

 一人取り残された千里は、その騒ぎをぼんやりと眺めていた。

 千里が呆然としている間にも、慌しく事態は進んでいく。
 外来医に拠る診察を終えるとすぐに別の医師が入ってきて、千里は手術室に連れて行かれた。
 そこで、神経を繋ぐ手術を受ける事になったのだ。
 しかし、処置を担当した医師の話では、完全に回復する見込みは無いらしい。
 日常生活に重大な支障を来すほどの障害を残す程ではないが、楽器の演奏など繊細さを要求される動作を行うのは困難だろう、との事だ。

  もう、弾けないかもしれないんだ。

 部分麻酔で手術が行われた為、千里はその過程をほとんど全て見ていた。
 修復可能な神経を繋ぐ所も、避けた皮膚を縫いとめる所も、全てが目に焼き付いた。
 自身に向かって、派手に跳ね返ってきた返りの風の姿が、そこに在った。
 術後、千里は抜糸までの間入院する事になった。  処置室から出てきた千里を、北尾が待ってくれていた。
 担任と保健医は、学校に詳しい状況を報せる為一度戻ったとの事だ。
 商社勤めの父は海外出張中の為来れず、母が会社を早退して、今こちらに向かっているらしい。
 その日、北尾はずっと千里に付き添ってくれていた。
「千里、ごめんな」
 与えられた病室に移り、二人きりになった時、北尾が俯いたまま本当に辛そうな声で謝った。
 千里本人よりも、北尾の方が余程ショックを受けていた。
 俯いた彼の顔を覗き込むと、目の淵が赤い。
「北尾さんのせいじゃないよ、自爆じゃん。そんな顔しないでよ」
 北尾の言いつけを守らなかったのは自分なのだから、彼には何の責任も無い。
「ごめん」
 これは、変に意固地になって、意地になって、約束を破ってしまった結果なのだから。
「謝らないで。謝られると、辛いよ。オレが悪いんだからさ」
 自分が変にイキがって取った行動が、こんなにも周囲に迷惑を掛けている。
 今はその事の方がよほど辛い。
「北尾さんは、怒るべきだよ。『どうして一人で打ったんだ』ってね」
 それなのに北尾に謝られてしまっては、千里が謝るタイミングを失ってしまう。
「だから、『そもそも弓を持たせなければこんな事にならなかった』とか、『ちゃんと自分が付いていれば』なんて、考えないでね」
 千里は真っ直ぐに北尾の顔を見つめた。
「……」
 その言葉に、北尾が言葉を詰まらせた。
「ほーら、考えてた。これは、正真正銘百パーセントオレの自爆なんだから、北尾さんは何も悪くない。
 そんな風に謝られて落ち込まれたら、オレが反省するとこ失くしちゃうよ」
 それは本当だ。
 こういう時はこっぴどく叱責されるほうが楽なのだ。
 北尾にそれを求めるのは無理な事くらい、千里にも分かってはいたけれど。


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