scene.4
それは、理不尽な暴力だった。
身体は裂ける程に開かれ、暴かれた。
咽喉が涸れる程叫び続けた。
それでも
助けは、来ない。
自分をここから救ってくれる誰かなど来ない。
それだけが明らかな事だった。
本来は晴れ着であろう着物は、もう、ぼろ布の様な有様だ。
僅かな自尊心が、それでも抵抗を試みたが、より強い力に封じられ、全ては絶望に姿を変えていった。
それなら。
いっそ早く終わってくれたら。
そんな諦めに似た気持ちが、幸也の身体から力を奪った。
ところが
抵抗が無くなった途端、解体屋は、幸也からあっさり身体を離した。
「思いの外、聞き分けが良い」
無表情な声だった。
興が削がれたらしい。
「………。
まあ、時間的にもこんなものでしょうかね」
溜息混じりに呟き、解体屋は時計に目を落とした。
…終わ る の かな…
半分靄の掛かった様な意識の中、幸也は小さく息を吐いた。
これ で
身体中が軋んで、悲鳴を上げている様だ。
…帰れ る…のか な…
父親は、まだ下にいるだろうか。
家に、連れて帰ってくれるだろうか。
幸也は静かに目を閉じる。
その耳の横で、金属と金属の擦れ合う、硬い音が聴こえた。
「………?」
首だけを、音の鳴る方へ動かす。
銀色の光が、目の端で閃いた。
「さあ、もっと愉しませて下さい」
そう言って解体屋は、銀色に光るものをゆっくりと幸也の身体に近づけた。
薄暗い部屋。
それがどんな形状をしているものか、視覚的に捉える事は困難だった。
しかし、次の瞬間、それは痛覚を以てその正体を告げた。
刃物だ。
しかも、酷く鋭い。
滑らかな刃先が、皮膚の上を滑る。
とうに涸れ果てた咽喉から、ほとんど声にすら成らない悲鳴が迸る。
反射的に身体が痛みから逃れようと踠く。
「駄目ですね、あまり動いては…。
綺麗に切れないじゃないですか」
解体屋の見せたそれは、満面の微笑み。
その瞬間、幸也の身体をかつて無い戦慄が襲った。
殺さ れ る 。
殺サ れ る。
殺サレル。
殺サレル。
殺サレル。
殺サレル。
殺サレル。
殺サレル。
殺サレル。
殺サレル。
瞬間、幸也は手探りで、顔の横に置かれた刃物のうちの一本を握りしめた。
細く 冷たい 金属の感触。
思いの外手近にあったのは、解体屋の油断だろうか。
幸也は、手に掴んだそれを闇雲に振り回す。
その腕が、一瞬何かを引っ掛けた。
振り回していた腕に、何かにぶつけた衝撃はほとんど感じなかった。
ところが
解体屋の身体が仰け反り、幸也の身体を戒めていた腕が解けた。
固く閉じていた目を開けてみると、解体屋は顔を押さえて呻いている。
獣の様な声を上げながら、もんどり打つ身体。
それはまるで異形の生き物の様に、醜怪だった。
「は…、は…っ、はぁ…っ 」
荒い息を繰り返しながら、幸也はその姿を凝視する。
どうしても、目が離せなかった。
恐怖が、身体を支配していた。
鼓動は大きく跳ね上がり、血管が裂けそうな程脈を打っている。
「どこだ…っ」
先刻までの冷ややかな声音とまるで違う、苦悶に満ちた声。
血に濡れた手が、幸也を捉えようと薄闇の中で蠢く。
蠟燭の灯りに揺らめき、それはまるで一つの生き物の様だ。
逃ゲ ナ ケレ バ 。
何度も空を掻く腕から逃れようと、少しずつ後退さる。
凍り付いて動かない身体を、それでも引き摺る様に動かした。
逃ゲ ナケレバ、 殺 サレ ル 。
本能の警鐘が鳴り響く。
足許に散らかった着物をどうにか掻き集め、幸也は、裸足でその部屋を飛び出した。
ほとんど転がる様に階段を下りた。
その後の記憶は余りにも曖昧で、明確な形は残っていない。
足許から伸び上がる様な黒い影と、逃亡者の姿を晒す月。
幸也の後ろを張り付いて離れない、真円の月。
血の様にやたら赤い月だけが、目蓋の裏に灼き付いて離れなかった。
*
身体が吸い込まれて落ちる様な感覚で、忍は跳ね起きた。
いや、跳ね起きたはずだった。
現実には、鉛の様に重い身体はぴくりとも動かず、寝台の上に張り付いたままだ。
背中に、じっとりと汗が染みている。
心臓は早鐘の様に打ち、喉の奥に物が詰まった様に息苦しい。
(何だ…今の…)
いつもの、赤い夢だろうか。
(それにしては、やたら生々しかった…)
いや、もともと妙に生々しい夢であるのは変わらない。
ただ、これまで見てきたそれらは酷く抽象的で、正体の掴めない物ばかりだった。
(でも…今、今のは……)
交わした会話。
相手の声。
姿形。
表情。
触れる肌の、感触。
何もかもが具象的で、明瞭だった。
「う……」
リアルに蘇る手の感触に、嘔吐感が込み上げる。
思わず手で口を覆いそうになった。
(身体が…動かない)
しかし、腕の一本すら忍の身体は動かない。
(何故…?
いや……それより )
(視界が…妙に暗い)
(俺は本当に、目を覚ましているんだろうか…?)
確かに、目を開けたはずなのに。
目の前は暗く、彩も無い。
それはまるで、志月と出会う前の世界と同じ。
何も無い世界と同じ。
(そう…か。何も無い世界…)
(そうだ…)
(あの人と出会うまで、世界は無色…だった)
そんな処へ引き戻されてしまったのか。
そう思った途端、忍は奇妙な絶望感に包まれた。