
scene.2
朱実が仕事に入った後、幸也は、昌弘と一緒に夕食を取り、風呂に入り、彼女達が仕事を終時間過ごすようになった。
当初、まず幸也が二歳も年長だった事と、その性別が自分と同じ男だった事にかなり驚き、戸惑ったのを憶えている。
それでも、兄弟も無く、近所に他に仲の良い子供もいない昌弘にとっては、近い歳の子供が身近にいるの喜ばしい事だった。
しかし、当の幸也はと言えば、あの日以来、ほとんど言葉を発する事は無く、ただぼんやりと中空を、見つめているだけだった。
ごく稀にぽつりぽつりと返事は返してくるが、ほとんどこちらの言葉が耳に入っていない様だ。
だから、当時子供だった昌弘には、幸也は精巧な人形の様に映った。
人を模して動く機巧人形の様だった。
昌弘は、最初、そんな彼の態度をひどくつまらなく思い、何とか気を引こうと数々の悪戯を繰り出したが、当の彼はそんな事をまるで意に介さず、目を合わせることさえしてもらえなかった。
かと思えば、その印象とは掛け離れて、彼は度々自傷行為を繰り返した。
ある夜の事だ。
その日、昌弘は女将に使いを頼まれ、夕食の後に出かけたのだが、その際幸也には、「先に風呂入って寝とり」と言い残して出掛けていた。
一時間程して帰宅すると、幸也が何処にもいない。
先に寝ていると思ったので、まず寝所を覗いたがそこにはおらず、台所にも、茶の間にも、店の方も覗いたがそこにもいない。
(一時間はすぎとるし、まさかなぁ)
行き掛けに風呂場に向かう姿は見ていたので、まさか未だに入浴中ということは無いと、昌弘は思っていた。
それに、実は昌弘は幸也と風呂に入るのが少し苦手だった。
妙に落ち着かないのだ。
だから、出来れば避けたい場所だった。
(あー、でももしかしたらノボせとるかもしれへんし)
一応見てみよう、と言うくらいのつもりで浴場に向かった。
脱衣所に入ると、その奥の浴室の電気が点いているのが見えた。
そして、そこから洩れる湯気で脱衣所内が湿気ている。
「うわ! ホンマにまだおるんか!」
慌てて昌弘は浴室の戸を開けた。
「ユキ、生きとるか!?」
中を覗いて更に昌弘は慌てた。
浴室の床にじんわりと拡がる赤い液体。
無造作に置かれていた剃刀で、幸也は自分の身体に無数の細かい切り傷を作っていた。
一つ一つは小さな傷なのだが、そこから滲む血が、床を濡らす水分に溶けて拡がっていたのだ。
「おまっ、なにしとんねん!」
昌弘はバスタオルを広げて幸也に被せた。
彼はぼんやりと宙を見ていて、自分が一体何をしているのか理解出来ない様だった。
「大きいのはないな!? だいじょうぶやな!?」
身体を拭いてやりながら、出血のひどそうな傷が無い事を確かめていく。
「…が、にげたから」
俯いたまま、幸也が何かを呟いた。
「なんや?」
珍しく自ら言葉を発した幸也の顔を、手を止めて昌弘は下から覗き込んだ。
「ぼくが、にげたから…」
彼の口から洩れ出たのは、おそらく置屋に逃げ込んできた日の事なのだろう。
「おかあさんが…だから、ぼくは…れなきゃ…」
意味を成さない言葉の羅列。
「しっかりせぇ! かなちゃんみたらビックリすんで!」
聞いていても意味が通らないので、もう話を聞き出すのは諦めて、昌弘は再び手を動かし彼の身体を濡らしている血と水気とを拭き取っていった。
後から聞いた話に拠ると あの夜、幸也は自分の父親に売られ、その客の所から逃げてきたのだと言う事だった。
架奈子が仕事に来なかったのはそれを知って慌てて止めに行った為らしい。
その日以来、架奈子も、父である幸一も姿を見ないと言う事は、その時に何か悪い事態に陥ったのだろうと推測された。
その現場にいたはずの幸也は、その時の事をあまり憶えてはいなかった。
憶えていたとしても、彼がそれを言葉にする事は出来なかったであろうが
ただ、剃刀を目にすると、彼は同じ行動を度々繰り返した。
それは包丁でも、カッターナイフなどでもなく、剃刀にだけ反応した。
その理由は昌弘には分からなかったが、女将は何となく知っている様子だった。
またその他にも、彼は放っておくといつまでも食事もしなければ床にも入らなかった。
言われたら素直に従うのだが、言われなければ何も行動しない 或いは出来ない。
その彼の面倒を看ているうちに、結果として昌弘は随分な世話焼きになってしまった。
そのうちそんな幸也の扱いにも慣れ、昌弘は、否とは言わない彼に対して一方的に会話し、一方的に引っ張りまわすという方向でその関係を強引に落ち着かせていった。
昌弘は気付いたのだ。
此処にあるのは只の匣なのだと。
透明な硝子で出来た魂の容れ物。
強く抱いたら砕ける頑なで虚ろな匣。
中身は何処かに置いてきて、無いのだ。
