scene.2

『彼女の二の舞になる』
 移動中の電車の中、佳月の残したその言葉がずっと頭に引っかかっていた。
(誰の事なのだろう…)
 思い当たる相手がいない。
(宏幸なら何か知っているだろうか)
 それとも  
 考え事をしながら、何となく兄から受け取った通帳を開いてみた。
 今日の日付で振込が一件。
(ああ…)
 機械に打ち出された文字を指でなぞる。
 そこには兄の気遣いが残されていた。
 彼は、十年先も弟の味方らしい。
 一人笑い出した志月を、他の乗客が怪訝な顔で見ている。
 分かってはいたが、込み上げる笑いが治まらない。
 そんな時、電車が丁度目的の駅に辿り着いた。
 その駅に志月が降りたのは初めてだ。
 当然、この町を訪れるのもまた初めてである。
 抜け落ちた十年の間に訪れた事はあったのだろうか。
 そんな事を思いながら志月は改札を出た。
 宏幸が残していった、自宅の住所の書かれたメモを頼りに歩き出す。
 時間はまだ三時前  小学生がちらほら下校する姿は見えるが、中高生はまだ下校時刻ではない様だ。

 しばしの間立ち止まって、色とりどりのランドセルを見送る。
 無邪気な笑い声が、少し耳に痛い。
 おそらくきっとあれは日常。

 おそらく普通であろう景色の向こうに、欠けた記憶の欠片を描いてみる。
 自分の姿を描いてみる。
 何気ない景色の中で、誰と肩を並べ、何を語り、何処へ向かって歩いていたのだろう。
 夕風の景色は金色で、その向こうには何も見えなかった。

「おっと、ここだ」
 ふと顔を上げると、目的のマンションの前だった。
「もう少しで見過ごす処だ。  危なかった」
 マンションのエントランスをくぐる。
 この時間では、まだ忍は帰っていないだろう。
 宏幸も、当然いる訳が無い。
「そうだ、一応電話…」
 ふと、川島家には今、志月にとっては一面識も無い宏幸の妻しかいない事に気付いた。
 マンションの下まで来ておいて今更だが、志月は携帯を開いた。
 電話がコールし始めてすぐ、先方は受話器を取った。
『ハイ、川島です!』
 トーンの高い、元気な声だった。
「東条です  
受話器の向こうの相手が一瞬沈黙する。
『え…? あ! もしかして志月くん!?』
 とても驚いた様子で、受話器の向こうの女性が志月の名を呼んだ。
「ああ、何だ。面識あるんだな」
 志月もまた、自分が相手に面識があった事に驚いた。
『何よ、やぁね! 私も同じ高校なのよ』
 受話器の向こうで、相手はけたけたと笑う。
「そうなのか」
 その事に、志月は安堵する一方で、いつもの不安を抱いた。
 それは、埋まらないギャップだ。
 相手の知る自分と、今の自分の  
『どうしたの、急に?』
 志月の心配を他処に、受話器の声はとても親しげだ。
「突然で悪いが、今からお邪魔しても構わないかな」
 この様子ではいきなり門前払いにはされまいが、もしこの後彼女が用事でもあったらどうするのかと今更な不安が頭を過ぎった。
『なぁに? やっと外出許可降りたの? いいわよ、いらっしゃいよ! 何時頃こっちに来れるの?』
 そんな不安を蹴飛ばす様な答えがすぐに返ってきた。
 志月は胸を撫で下ろす。
(良かった…。全く、何で事前に連絡入れなかったんだろう)
 それだけ動揺していたのであろうが、そんな事にもまるで彼自身は気付く事が出来ていなかった。
「それが…実は今、下にいるんだ」
『な~に!? ちょっと、ホントにどうしたのよ! とにかく早く上がってらっしゃい』
素っ頓狂な声が聞こえたかと思うと、エントランスのオートロックが外れる音がした。
『九十秒しか開いてないから、早く入ってね!』
 そう言うと、一方的に電話が切れてしまった。
 志月は、とりあえず言われた通りに中に入り、川島家のある六階に向かった。

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