scene.5
小高い丘の上に、大きな月が昇る。
その下で、夜露に濡れた草が光る。
療養所は月明かりに照らされ、大きな窓硝子が濡れた様に光っていた。
志月は、両手の人差し指と親指で視界を長方形に切り取る。
藍色の空と、小さく光る無数の白い光。
そして、無機質な月の黄色い光。
指で作ったファインダーの中は、とても幻想的な風景だった。
とても静かで、穏やかな世界だ。
けれども、そこには何か足りないものがある。
大切な何かが欠けている。
それはそのまま志月の中の宇宙に繋がり、繰り返し何かを問い掛ける。
何が欠けているのか。
何か大切なものが、そこには無い。
志月は指で作ったファインダーを解き、カーテンを引いた。
寝台に横になり目を閉じる。
さすがに、身体がほとんど何ともないのに入院し続けていると、夜になっても眠くはならない。
閉じた目の中で、昼間の出来事がくるくると巡る。
それは、プレーヤーがレコードの溝をなぞる様に、刻み付けられた新たな記憶を辿っていく。
(どうして )
そして、志月の記憶のレコード盤に、針が突然引っ掛かった。
(あんなことを)
レコードが針飛びする様に、何度も同じ場面を繰り返す。
深い後悔と、やり直しの利かない現実への焦燥感を伴って。
(どうして…あんな事を )
志月は固く瞑っていた目を開いた。
昼の出来事を思うと、激しい後悔が襲う。
何故、あんな振る舞いをしてしまったのか。
(傷つけた )
何かが壊れた、と思った。
おそらくは忍の努力によって保たれていた、危うい均衡。
それが、あの瞬間に崩れてしまった。
志月は、それが糸の様な細さで保たれていた事すら、今日の今日まで気付かなかった。
そして、気付いてしまった。
『揶揄ってるの?』
酷く傷付いた顔で洩らした彼のその一言で、もう、充分だ。
ただの保護者と被保護者の関係ではなかった事に気付くには、それだけで充分だった。
初めてではなかったのだ。
志月が憶えていないだけで、何度も繰返された事だったのだろう。
おそらく、それ以上の事も
(そうだ。
それなら、忍が殊更過剰に反応する理由も付く)
そうだとすれば、忍がどの様な経緯で志月の手許に在ったのか、自動的にその説明も付くようになるのだ。
忍が志月の許に引き取られたのが六年前。
当時の彼は、僅か十歳かそこらの子供だ。
そして、志月もまた未成年の学生。
慈善事業などの正当な理由でない事は、容易に想像が付いた。
過去を問う度に、困った様に微笑む忍。
母親の見せた動揺。
断片的に告げられた、情報の欠片。
全てを合わせて推察すると
(『買った』 と、言う事か…)
「あの母でさえ、さすがに言わない訳だ」
今までは、一体どんな事情で一緒に住んでいたのだろう。
そればかりを考えていた。
一緒にいる時の気安さは、生活を共にしていた記憶が、潜在意識の中に残っているからだと思っていた。
愛しさも、被保護者に対する自分の中の保護欲なのだと、そう思っていた。
今日までは。
今日、あんな表情をする忍を見るまでは。
志月は左手で顔を覆った。自分の中の空洞の一部を垣間見た。
(見たくなかった…)
自分が平然と人を買える人間だなどという事を、知りたくなかった。
そして、十分に判断力を備えていない子供に、人道的とは言い難い行為を強いてきたのであろう事など、気付きたくなかった。
それでも、そんな事は無かったかの様に接して、自分を慕ってくれている忍になんて事をしたのだろう。
志月は項垂れる。
酷く傷付いた顔で痛々しい微笑を作って、病室を立ち去る忍の姿を思い出す。
せっかく、彼がこれまでの経緯を志月に気付かせない様に注意を払ってきてくれていたのに、考え無しな一瞬の行動で全てを壊してしまった。
激しい後悔が志月を襲う。
けれど、もう遅い。
一度起こってしまった事は、もう消えない。
そして気付いてしまった事実を、もう取り払う事は出来ない。
彼に対して抱いた情動を、打ち消す事は出来ない。
(とにかく 明日、病院を抜け出してでも会いに行こう)
忍に対してどういう態度を取るべきなのか、志月にはまだ分からない。
忍が志月にどういった感情を抱いているのか、それも分からない。
ただ、こんな風に傷付け、そのままにしておくのは本意ではなかった。
とにかく忍に会って、まずは今日の非礼詫びねばならない。
全ては、それから。
(そうだ…このまま時間が経ってしまえば、余計に気まずくなるだけだ)
そう決めると、志月は布団を深く被った。
なるだけ呼吸を整え、頭の中を白くして、落ち着く事に努める。
眠れる訳も無かったが、会いに行くと決めたなら、それに備えて少しでも休んでおきたい。
もう一度最初から。
間違わないで 始める。
その為に 出来るだけの事を しよう。
志月は閉じた眼の奥で、明日決行予定の脱走計画を練り始めた。
(受付さえクリアすれば、しばらく時間が稼げる )
とにかく、会わなければならない。
それだけで頭の中は一杯だった。
だから、志月は気付かなかった。
昼間、病室を伺っていた人影。
その一部始終を、全て見届けていた者がいる事に、気づく事が出来なかった。
水面に投げた石の様に、一つの事件は新たな波紋を拡げてゆく。