scene.3
午後五時三十分
川島家の料理長は、戦闘準備を開始した。
「今日は何にしようかしら」
独り言を言う声が弾んでいる。
「 忍くんは、何が好きかしら」
あまり好き嫌いを言わないので、弓香は未だに彼の好物を知らなかった。
どうも辛いものはあまり得意ではないらしい。
そのくらいの事しか、未だに知らないままだ。
夫の宏幸とは、結婚して彼此五年程になるが、未だに子供は無いままだった。
別段不満は無いし、夫への気持ちも色褪せたりはしていない。
それはきっと宏幸も同じだと、弓香は思っている。
けれど、忍が川島家に来て二ヵ月。
弓香は家族が増えた愉しさを実感していた。
自分達夫婦の子と言うには彼の年齢は高い。
それでも弓香にとって新しい家族には違いなかった。
忍は、基本的にはよく出来た子なのだった。
しかし、生育環境の特殊さからくるのか、精神的な部分で極端に幼い面を持ち合わせていた。
自己表現があまりにも下手なのだ。
気持ちを伝える事。
気持ちを受け取る事。
その二つを教えてあげたい。
宏幸と一緒に。
今までは、何かをしてあげたいと思った時、それは大抵の場合宏幸に対してだった。
同様に、何かしてもらうのも宏幸からがほとんどだった。
忍がいる事で、二人で何かしてあげる事が出来るのだ。
その連帯感が愉しかった。
弓香は鼻歌を歌いながらキッチンをくるくる回る。
炊飯器のスイッチを入れ、冷蔵庫の中の在庫品を確認。
本日の主役を厳正に選び、見合った相手役や脇役を探す。
配役が決まった瞬間だった。
玄関から鍵の開く音が聞こえた。
「おかえりなさい!」
相手がただいまと言うより先に弓香は声をかけた。
「ただいま戻りました」
声をかけられた方は、ダイニングまで入ってきてから弓香に挨拶を返した。
忍は大体このくらいの時間に学校から帰ってくる。
「着替えたらお手伝いしますね」
そう言い残し忍は自室へ入っていった。
春休み中ならともかく、学校が始まったのだから別に食事の支度は手伝わなくていい、と昨日も言ったのに。
弓香は苦笑した。
それでもあまり強く辞退しないのは、彼が中々の料理好きだと知っているからだ。
ただ気を遣っての行動ならば、弓香もはっきり止めるつもりだった。
しかし、あまり顔には出さないが、料理をしている時の忍はとても楽しそうだ。
自分自身も料理好きなので、それは何となく分かる。
一手間を惜しまない処、ちょっとした工夫、本のままのレシピから好んでアレンジを考えるなど、義務感だけでは到底出来ない事だ。
それに、やはり二人でキッチンに並ぶ事はとても楽しい。
色々意見を出し合って、分担して、張り合いも出るし、新しいものにチャレンジする機会も増えた。
五分もしないうちに、制服を脱いで自室から出てきた。
キッチンの脇に置かれた彼用のエプロンを着ける。
そして弓香の横に立ち、食材と現在の進行状況から次の作業を判断、そして実行する。
(こういうところ、やっぱり料理好きよねぇ)
食材と、出てる調味料で、大体何を作ろうとしているかが分かるのだ。
「今日は宏幸くんも早く帰ってこれるみたいだし、久々に三人揃って食べられるわね」
横で野菜の下処理を始めた忍に、弓香は言った。
「そうなんですか?」
「昨日入稿が終わったって言ってたから、二~三日は早く帰ってこれるみたい」
「良かったですね」
あまり表情豊かではない彼が、少しだけ微笑んで答えた。
(可愛いとか言ったら、やっぱり失礼なのかしらね?)
男子高校生に、あまり『可愛い』は褒め言葉ではないだろう。
そう思ったので、口に出すのは控えた。
二人で調理していると、一人でするよりかかる時間も短いし、凝ったものが作れる。
ささやかなりに頑張った夕食がダイニングテーブルに並んだ頃、宏幸が帰ってきた。
入稿明けで少しは落ち着いているはずが、妙に疲れている様子だ。
行儀悪くもダイニングでネクタイを解きながら、宏幸はその理由を語った。
「いやー、参った! 昨日入稿した原稿の写真が今日の朝いきなり差し替えだとか言われてな、慌てて印刷所まで走ったよ。何とか間に合ったけど、真剣に焦った!!」
既に料理が並び始めているダイニングテーブルの横で背広まで脱ごうとしたので、弓香は慌ててそれを制止した。
「ちょっと、こんなとこで脱がないで! 料理にホコリがつくじゃない! それに、いつもお行儀悪いって言ってるでしょ」
これは、忍が来る前から夫婦間で再三議論された命題だ。
少なくとも食べ物の側で服を着替えるのは衛生上よろしくない。
もちろん、行儀だってよろしくない。
あまつさえ今は青少年が家の中にいるのに、社会人として教育上もよろしくない。
この際だから、忍がいる事を理由にこの件に関しては徹底的に止めさせようと、弓香は目論んでいた。
「わーかったよ!」
弓香に凄まれ、宏幸はすごすごと洗濯機の置いてある脱衣所の方へ消えた。
「まったくもーっ!」
仁王立ちで溜息を吐いた弓香の後ろで、押し殺した笑い声が聞こえてきた。
「 ??」
振り返ると忍が口を押さえて笑っている。
「すみません…っ、本当に面白いですよね、お二人の会話」
真剣に受けているらしい。
(うー、あんまりうれしくなーい!)
あまり破顔して笑う様など見せてくれない忍なので、笑っている事実は嬉しいのだが、その理由は何とも不名誉だった。