その日の夕食が終わった後、宏幸が酒を呑みたいと言い出したので、弓香は再び肴を作るべくキッチンに入った。
 忍も最初は手伝ってくれていたのだが、途中で携帯電話が鳴った為、脱落してしまった。
 会話するのにベランダへ出た処をみると、相手は志月なのだろう。
 学校の友達からのコールは、彼は結構そのまま取っている事が多い。
「かーわいい」
 自分にも、あんな風に初々しく微笑ましい時代があった。
 その頃はまだ携帯電話など学生の持ち物ではなくて、普通の固定電話の時代だった。
 家族に会話を聞かれまいと親子電話の子機を持ち出したり、受話器を手で隠したり、公衆電話から掛け直したりした。
「そういや、お前んちに夜電話すると、必ずお義父さんが横ヤリ入れてきたっけ」
 宏幸が、ふと懐かしい話を引っ張り出してきた。
 交際をはじめた頃、高校二年生の話だ。
「お父さん、あれで宏幸くんのこと気に入ってたのよ」
「へえ! 今はさておき、当時は絶対邪魔されてると思ってたよ」
 肴を待ちきれず、洋酒の壜をグラスに傾けて宏幸は言った。
「自分が話したかったみたいよ」
 夫のせっかちをキッチンカウンターから一睨みしながら、弓香は答えた。
「へええ!   そう言えば、今日はまた随分長話だなぁ、あいつら」
 宏幸がベランダに目を遣った。
「そうねぇ、もう三十分は喋ってるわね」
 数日に一度の割合で志月から忍に電話はかかってくるが、いつもあまり長話はしない。 長話になるのは、どちらかというと千里からかかってきた時の方が多い。
「おい、春とは言えまだ肌寒いし、あれじゃ風邪引くんじゃないか?」
 ベランダで部屋に背を向けている忍は、薄手のコットンシャツしか着ていない。
「あら、ホント。ずいぶん薄着ね」
 二人が余計なお世話と思いつつも声をかけようとした時、彼は電話を畳んで部屋に戻ってきた。
  ??
 どうしたんですか?」
 弓香と宏幸に揃って視線を向けられ、忍が不思議そうな顔をした。
「いや…」
「ねぇ、寒くない? 大丈夫?」
 弓香が問うと、忍は更に首を傾げた。
「いえ…全然。そんなに寒そうですか?」
「寒そうだよー。私なんか、見て! シャツの上からブラウス着てそのまた上にカーディガン着てるんだから」
 宏幸も似た様なもので、室内にいながら三枚くらい重ねて着ている。
「…暑くないですか?」
 反対に言われてしまった。
 確かに、春だと言うのに弓香たちもまた厚着と言われれば厚着なのかもしれない。
「ま、いいか。それより、どうだ? 一杯くらい」
 弓香の横で、宏幸がウィスキーグラスを掲げた。
「あ、お酒はちょっと苦手で  
 忍の辞退する声にと同時に、弓香もまた夫を嗜めた。
「ダメよ! 未成年に飲酒を勧めるなんて!」
 ついでに、その二の腕を軽く抓ってやった。
「いてっ!! いいじゃないか、ちょっとくらい」
 恨めしそうに宏幸が弓香を睨んだ。
「はいはい、晩酌ならかわいい奥さんがお付き合いしてあげるから、未成年を巻き込まないの! 忍くんも何か淹れるわ、何が飲みたい? もちろん、ノンアルコールでね」
 弓香はグラスを二つ手に持って、キッチンへ入っていった。
「私は、カシスにしよっと  忍くんはー?」
「何でも良いですよ」
 その言葉の後に、酒精の含まれていないものであればと一言付け足して彼は笑った。
「でも、せっかくだから気分だけでも出しますか…」
 弓香は昨年宏幸と二人で訪れたショットバーで見掛けたノンアルコールのカクテルを作ることにした。
 早い話が洒落の利いたジュースなのだが、気分くらいは出る。
「はーい、おまたせー。忍くんはこれ! シャーリーテンプル  一応カクテルよ。ただしノンアルコールのね」
 忍の前に紅く透明な液体の入ったグラスを置いた。
「私はカシスオレンジです」
 にっこり笑って弓香もテーブルに着いた。
「お前ら、二人揃って本当に甘いもの好きだよな。  俺はどうも駄目だなぁ、酒が甘いのって」
 宏幸が呆れた様な視線を二人に送った。
「宏幸くんはお茶が甘いのも駄目じゃない」
 すかさず弓香は突っ込みを入れた。
「当たり前だ! 茶が甘いなんぞ邪道だ」
 宏幸がふんぞり返って言った。
 その様子を見て、忍が可笑しそうに笑っている。
「本当に漫才みたいですよね、川島さんと弓香さんの会話って」
 夕食前に言われた事を再度言われて、二人は互いの顔を見合わせて溜息を吐いた。
「あーあ、おかしいなぁ。もっとロマンチックな結婚生活の予定だったのに…」
 弓香はがっくりと肩を落とした。
「そりゃ、弓香…自分の性格が計算に入ってないだろ」
 宏幸の呆れた様な一言が、追い討ちをかけた。
 弓香も特に反論はせず、重ねて溜息を吐いただけだった。
「俺は、お二人のそういう遣り取りを見ているの、好きですよ」
 忍が本当に嬉しそうにそう言ったので、弓香も釣られて嬉しくなった。
「本当? 呆れてない??」
「呆れてないです。  実は、初日はちょっと呆れたんですけど、今は…見ていて安心するんです」
 そう言って微笑した彼に、弓香は初めて親友の面影を見た。
 遠い昔、彼女が呟いた言葉を思い出す。

  弓香と川島君は本当に素敵ね。

  一緒にいて、本当に楽しい。

『篠舞は? あなたは東条くんといても楽しくないの?』

 そう言われた時、弓香は篠舞にそう問い返した。
 彼女は困った様に笑った。

  もちろん、楽しくなければ一緒にいない。

  でも、そうね。

  楽しいのとは少し違うかな。

  認められる人間でいたいの。

  お互いに。

 思えば、あの二人の間には常にある種の緊張感があった。
 恋人でありながら、二人は互いに求道者であった。
 自らの理想を追いながら、相手に対しては尊敬出来る部分を求めていた。
 弓香と宏幸の様な、気が楽だとか、楽しいだとか、そういう関係とは少し違っていた。
(志月くんは、忍くんにも同じものを求めたのかしら  
 そうだとしたら、それは幼い子供にどれ程の緊張を強いたのだろう。
 それはきっと、安らぎや平穏とは程遠い生活。
 向かいの椅子に、宏幸と並んで座っている高校生の顔を覗き見る。
 目の前の子供は、一体志月をどう思っているのだろう。
 少なくとも慕ってはいるのだろう。
 今でも彼の世界は志月を中心に回っている。
(でも、それはどんな種類の感情なのかしら?)
 果してそれは、恋愛感情だろうか。
 実のあるものに見えて、それは案外ただの刷り込みかもしれない。
 或いは吊橋効果の様なものかもしれない。
「弓香」
 突然宏幸が弓香の肩を揺すった。
「お前が先酔っぱらってるのか?」
 大した量も呑んでいないのにとでも言いたげに
「そんなことないわよ。ちょっと物思いに耽ってたのよ」
「あ、そう。じゃ、おかわり持ってきて」
 宏幸が空っぽになった酒瓶を掲げた。
「ちょっと! なんでもう空になってるの!?」
 呑み始めには七分くらいは残っていたはずの瓶が、見事に空になっている。
 弓香も、そしてもちろん忍もウィスキーには手を付けていない。
 つまり、宏幸一人で呑み干してしまったのだ。
「もう一本あっただろ。去年の暮れにお義父さんがくれたヤツ」
 呆れて固まっている弓香を、宏幸がせっついた。
「だーめ! 呑みすぎよ! 今呑んでるグラスが空いたら、もう寝なさい!」
 第一明日もまだ仕事なのだから、あまり呑み過ぎたら朝起きれなくなるだろう。
「いいじゃないか、たまにしか呑まないんだから」
 不満気に宏幸が弓香の顔を見ている。
「だめなものは、だーめ!」
 弓香は大げさに宏幸からそっぽを向いた。
「あの  
 遠慮がちに忍の声が二人の間に割り込んできた。
「俺、そろそろ寝ます」
 そう言われて時計を見てみると、もう十一時前だった。
「あら、夜更かししちゃったわね。宏幸君も仕事だし、もうそろそろ寝ましょうか」
 そう言って立ち上がると、渋る夫を寝室に押し込み、宴の後始末を手早く済ませた。
 真っ先に就寝を宣言した忍が、片付けものも手伝ってくれた。
 気の利く子なので、実際弓香の家事労働は相当軽減されている。
「ありがとう。遅くまでつきあわせてごめんね、おやすみなさい」
 弓香が声を掛けると、照れくさそうに笑った彼は、小さな声で「おやすみなさい」と答えた。
 一緒に生活していれば情も湧く。
 人それぞれに様々な事情や思いがある。
 誰にどんな理由があっても、それによって彼が傷つかなければ良い。
 誰も傷つけないでくれたら良い。
 数ヶ月に渡って生活を共にするうちに、弓香は真剣にそう思うようになっていた。

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