
scene.5
「仕事、ねぇ」
多忙なサラリーマンを見送り、志月はぽつりと呟いた。
「結構、忙しいみたい。俺が居候させてもらうようになってから、まだ一ヶ月も経ってないけど、その間にも何日か会社に泊まり込んでたから」
忍が、宏幸の多忙振りを証言すると、志月は困った様な顔で笑った。
「いや…別に嘘吐いて帰ったなんて、思ってないんだ。
ただ、宏幸が結婚してサラリーマンって言うのが、俺には全然想像出来ないだけで」
そう言って、旧友の姿を追う様に、彼は一瞬だけ窓の外を見た。
(あ…そっちか)
「下手すると、あいつはクラスで一番調子のりなんだ。
結構バカバカしい悪戯やらかすんだよ。
要領良いから先生なんか気付いてないけど、クラスの連中は俺と同意見だと思うけどな」
釈然としない顔で首を捻る志月のは、昨日の事を話しているような口調だった。
それは聞く側の忍に微妙な違和感を与えたが、"今までの志月"から切り離して見れば、その様子は、宏幸の話の通りとても自然体だ。
「そうなんだ」
まるで別人と話している様な錯覚に陥りつつ、忍は短い相槌を打った。
「そう、例えば体育祭の時に援団の使うマスコットに教頭のハゲ頭をモチーフにしたり、遠足のおやつにわざわざクーラーボックスに入れてアイス持ってきたり 」
志月はと言えば、忍のそんな戸惑いに気付く様子は無く、彼の中の"去年"に、宏幸の繰り出した数々の冗句を順番に論ってくれた。
その話し方に忍は、千里と話している時と似た感覚を憶えた。
年の近い、目線の高さが変わらない人間への親近感だ。
十も年の離れた志月に対してそんな感覚を抱いた事は、当然無い。
「志月は? それには加担していなかったの?」
気付けば、忍は今までよりもずっと近い位置で彼の話を聞いている。
そして、千里と会話する時と同じ様に 或いは宏幸が志月にそうする様に、対等に近い場所から話していた。
「え? …いや、それはまぁ、いろいろ 」
まさかそこを突っ込まれるとはという表情で、彼は急に口篭った。
「何だ、一緒になってやってたんだ。それじゃ同罪だ」
忍は笑いが止まらなくなった。
可笑しかった。
忍から見た志月は、出会った頃からもう大人で、落ち着いていて、物静かで そしていつも昏い影がそこには落ちていた。
こんな志月は知らない。
そこにいるのは、全く別の誰かだった。
躊躇なく人に触れ、明るく、冗談も好きで、その屈託の無さから忍が感じたのは、
"今まで他人から拒絶された事の無い人"
そして、
"今まで他人を拒絶した事の無い人"
そんな印象だった。
「 どうした?」
志月が急に忍の頬に手を伸ばしたので、忍は驚いて身体を後ろに引いてしまった。
「あ、悪い 驚かせたかな」
伸ばした手を下げ、彼は少し寂しそうに笑った。
「ごめんな ただ…忍が、泣いてるから」
「えっ!?」
指摘され、慌てて目に手を遣ると確かにそこは濡れていて、忍は自分でも驚いた。
「あれ? 何でかな、全然哀しくないんだけど 」
手で擦ると、余計にそれは後から後から流れ落ちてくる。
驚かさない様に今度はゆっくり伸ばされた手が、忍の頭を撫でた。
「気が緩んだんだろう? 病室に入ってきた時死にそうなくらい緊張した顔してた」
長身を屈めて忍に目線を合わせた志月は、困ったなと言う顔をして苦笑いしていた。
「ごめん ごめんなさい」
自分でもどうしたら良いのか分からない。
入院患者に逆に心配かけている自分が、情けない。
忍は何度も深呼吸を繰り返した。
「何も悪い事なんて、していないじゃないか。ほら、顔拭いて これでも飲んで落ち着いたらいい」
コーヒーの入ったグラスを手渡され、来客用のソファに腰掛けるよう促される。
素直にそれに腰を下ろし、グラスに注がれたコーヒーを一口含む。
「ありがとう、ごめん 」
どうにか落ち着きを取り戻した忍は、改めて目の前の人物をまじまじと見つめた
細身の長身、少しキツく見える吊り気味の目、薄い口唇、何もかも同じなのにまるで別人を見ている様だ。
「そんなにじっと見られると、今度は俺の方が何だか緊張するな」
気恥ずかしそうに、志月は髪を掻きあげた。
「あっ、ごめん」
言われて、慌てて視線を逸らす。
「いや、その…別に良いんだけど」
その先、二人ともお互いに掛けるべき科白が見付けられず、目を逸らしたまま沈黙してしまった。
「失礼します。夕食をお持ち致しました」
沈黙を破ったのは、ホテルのルームサービスの様に病室のドアを開けた栄養士だった。
「こちらが志月様、そして左側がお客様のお食事でございます」
ボーイの様に恭しく頭を下げ、栄養士は本日の夕食の説明を始める。
そして、一通りの説明を済ませると一礼して病室を去って行った。
「 じゃあ、食べるか」
にっこり笑って、志月は来客用のソファに自らも腰を下ろした。
ソファは一応対面になっていたので、二人は普通に顔を向き合わせながら食事を摂る事が出来た。
「あ、そう言えば…忍は今 」
彼は何か問おうとして、そのまま言葉を途切れさせてしまった。
「何?」
忍が続きを促す。
「…今、高校一年生なんだっけ?」
改めて質された内容は、意外に他愛も無いものだった。
「もう時期に二年生だけどね」
「あ、そうか。不思議だよな、俺と同い年か…。って言っても、俺は実際には十も年上らしいけど。
未だに鏡を見る度に違和感を感じて仕方が無いんだ。信じられるか? 一晩経ったら自分が老けてるんだぞ?」
その科白に較べてさほど困っていない様子で いや、むしろどこか面白がっているような口調で志月は言った。
「……」
しかし、彼と一緒にそれを茶化そうとは、とてもではないが忍には出来ない。
忍が返答に困っていると、志月は更に続けた。
「なぁ、俺ってどんな大人になってた?」
無邪気に笑うその顔はどう見ても好奇心の塊で、自分自身の事なのに彼は何処か他人事の様な気楽さだ。
しかし、忍の知る彼は少々言葉に表し難い人物で、忍はどう答えたものか、言葉を詰まらせた。
「どんなって 物静かな、人だった…かな」
それくらいしか答えられない。
彼に対してどの程度話して良いのかも、忍には判断出来ない。
「物静か…。想像つかない 」
夕食を口に運びながら、志月は"十年後の物静かな自分"を想像している様だ。
(確かに、物静か…では無いよな)
心の中で呟きながら、相手を覗き見た。
(別に、今だって騒がしい訳では無いけど…)
そんな忍の視線はお構い無しに志月は更に質問を重ねた。
いつ出会ったのだとか、何故二人で暮らす様になったのだとか、どんな風に暮らしていたのだとか
そのいずれの問いに対しても忍は満足に答える事が出来なかったが、志月はそれ程しつこく追求はしてこなかった。
それよりも、今の忍がどうしているのか、その事を熱心に訊いてきた。
「学校は、どこに?」
「城聖学園だよ」
「へえ…、確かに桜川の家から一番近くて、まともな学校だな」
自分がした事なのに、妙に感心している志月が可笑しい。
「そうなんだ?」
笑いそうになるのを堪えながら、忍は相槌だけを返した。
「まぁ、そうだな。
少なくとも柄は悪くないはずだし、進学率も高いし、何より進路の幅が広いだろ?
ごく一般的な学科にも進学出来るし、医学部や司法関係、芸術方面にも進めるからな。
生徒はじっくり時間を掛けて進路を選べる」
普通科の公立高校に、親の反対を押し切ってまで入学した男が、そんな事を言った。
「じゃあ、志月も城聖に進めば良かったのに」
忍がそう言って苦笑すると、志月はそれに異を唱えた。
「俺は良いんだよ。やりたい事もやれない事もやらなければいけない事も 全部分かっているんだから」
屈託の無いその声音に、僅かに影が差した。
ほんの少し、寂しさが差した。
宏幸の言葉を、思い出した。
"何でも持ってるヤツだけど、
選ぶ権利だけは持ち合わせていなかった"
彼は、自分の親友をそういう風に言い表していた。
(それって、本当に恵まれてるって言うんだろうか?)
何か違う様な気がする、と忍は思った。
「それはさておき、次二年生だろ? 進路は決めたのか?」
忍の思考を断ち切る様に、志月の声が耳を引っ掛けた。
「え? 何?」
慌てて忍は顔を上げた。
「進路だよ。二年生になったらすぐに進路調査、あるんじゃないか?」
そんな話を始めた志月は、大人の顔になっていた。
忍にとって、見慣れた彼の顔だ。
そういう表情を見せられて初めて、彼がかつてのその人と同じ人間なのだと実感する事が出来た。
(やっぱり、同じ人なんだ…)
忍は、小さく安堵の息を洩らした。
別にそこを疑っていた訳ではなかったが、あまりにも別人だったので、何処で志月なのだと納得して良いのか分からなくなっていたのだ。
