
桜の花が咲く前に
scene.1
いよいよ明日は志月の病院へ行く。
忍は妙にそわそわして居心地の悪い心持だった。
そこへ、川島家の電話が鳴り響いた。
「はい、川島です」
弓香が受話器を取った。
「忍くーん、電話だよ!」
どうやら自分宛ての電話だったらしい。
忍は与えられた部屋で寝転がっていたのだが、ゆっくりとその身体を起こした。
川島家に厄介になっている事を知っているのは二人だけ。
即ち電話の相手はその二人のうちのどちらかだ。
そのうち、わざわざ長期休暇中に電話など掛けてきそうなのは大体どちらなのかも想像がつく。
「はい、もしもし?」
受話器を受け取り声を掛ける。
「もーっ!! いい加減携帯持ちなよ! プリケーでいいからさぁっ」
電話の相手は第一声から「半ギレ」の状態だ。
「え…いや、ごめん」
思わず勢いに負けて謝ってしまう。
「やっぱりヨソんちの家電にかけんのってキンチョーすんだよね! そんでさぁ、忍って今日ヒマ? ヒマだよね!? ヒマでヒマでしょうがないよね!」
質問のはずが途中で断定に変わる。その会話形式に既視感を覚え、忍は思わずキッチンで鼻歌交じりに本日のおやつを製作中の弓香を見遣った。
(篠舞さんて、やっぱり俺と似てたのかな…。こういう性格に弱いのって)
弓香とずっと親友だったという背尾篠舞。
忍は初めて会った事も無いその女性に親近感が沸いた。
「おーい、聞いてるー!?」
「あっ、ごめん。聞いてる」
「そんじゃねぇ、一時間後にS……駅の南改札! オッケー? そっち携帯持ってないんだから間違わないでよ!?」
気付いたらすっかり一方的な約束は取り付けられ、時間と場所も有無を言わさず指定された。
「わかった」
別段異を唱える理由も無かったので忍は承諾の意を伝え、受話器を置いた。
これだけ強引なのに、絶対に自分から受話器を置こうとしないのが千里の微笑ましい部分かも知れない。
「だあれ? せっかくお名前言ってくれたんだけど、聞き取れなかったの」
成型済みのクッキーの種を温めたオーブンに放り込み、弓香はダイニングへ出てきた。
「ああ、同じ学校の水野千里です」
「ああ! 宏幸君がよく顔を合わせたって言う、ちっちゃくて元気のいい子ね!」
弓香の言い様に忍は思わず笑ってしまった。
(ちっちゃくて元気な子 本人が聞いたら激怒しそうだな)
「仲がいいのねー」
にこにこして弓香が言った。
「え? そうですか?」
忍と千里は少し特殊な関係だ。
普通に仲が良い、と表すのは何となく違っている様な気がする。
「いいんじゃない? わざわざ春休みなのに一緒にお出かけしたりとか」
とても嬉しそうにしている彼女を忍は不思議に思った。
人の事なのに、何故そんなに嬉しそうにしているのだろう。
「待ち合わせは何時にどこなの?」
ちらりと壁掛けの時計を見ながら弓香が質した。
「S……駅の南改札に一時間後って言ってました」
「そこなら、うちからは十五分くらいよね? それじゃあ十五分くらいで焼きあがるから、お友達にも持って行ってあげて」
まるで息子の交友関係を心配する母親の様に、川島家の若奥様はいそいそとクッキーのラッピング準備を始める。
「あの、そんな気を遣わないで下さい」
忍は慌てて椅子から立ち上がる。
「別に気を遣ってる訳じゃないの。まぁ、私の趣味よ。 でも、やっぱり仲良くしてくれるお友達がいるのは嬉しいわ。迷惑でなければ持って行ってちょうだい?」
満面の笑顔でそんな風に言われては、返す言葉も無い。
「ありがとう…ございます」
弓香の気遣いが嬉しいのだけれど、上手くそれが言葉にならない。態度でもどう示せば良いのか分からない。そしてそのまま俯いてしまう自分に嫌悪する。
「今日のはなかなかの上出来なのよ~」
そんな事はまるで気にしない弓香は、オーブンの中で徐々に色付くクッキーの様子を見ている。
彼女はそう言う瞬間に言葉を失ってしまう人間がいる事を、受け止めている。
ごく自然にそれが出来、またフォローする事も出来る。
弓香は世話焼きでしっかり者の母親の様だし、宏幸もまたよく聞く典型的なマイホームパパの様だ。
それ程年齢が離れている訳ではないので、こういう言い方をすると怒られるのかもしれないが。
きっとこういう空気はとても平凡なもので、何処にでもあるのだろう。
だけど、それが自分からは一番遠い。
それは確かに忍の憧憬で
だからこそ、時々言葉に詰まってしまう。
「as time goes by…」
忍は小さな声で呟いた。
いつまでも同じ場所には留まれない。
否応無く明日は来るし、一年、また一年と歳も重ねる。
その中で、良い時代も悪い時代もただ通り過ぎてゆくだけだろうか。
その中で、その手の中に何か掴み取る事が出来るのだろうか。
「なぁに? 古い歌知ってるのね」
弓香が忍の呟きを拾った。
「え…?」
忍はただ、授業で習った熟語を呟いただけだったのだが、どうやらこのタイトルの歌があるらしい。
「あら? 違うの? 『時の過ぎ行くままに』でしょ?」
心が少し昔に旅立とうとしている若奥様は、きょとんと目を丸くした。
「あ、ハイ、そうです けど…」
その和訳は知っているが、歌のタイトルだと言う事は知らなかった。
弓香が更に歌の説明を付け加えようとした時、オーブンが小気味良い鈴の音を鳴らし、クッキーが焼き上がった事を知らせた。
「あら、出来たみたい」
オーブンから慎重に天板を取り出し、焼き色を確認する。
「オッケー、上出来上出来!」
今はパティシエールの彼女が、満足気に頷いた。
そして、オーブンシートごとガラス製のまな板の上に移し、団扇で扇いで粗熱を取っている。
それからおよそ十分後、可愛らしくラッピングまでされたそれは忍の鞄の中に収まっていた。
「ごめんね、ギリギリになっちゃったね」
弓香は申し訳無さそうに忍を送り出した。
「いえ、そんな…。行ってきます」
駅まで早足で行って、すぐに電車に乗れれば充分に間に合う時間だ。
まだ熱の残る小さなお土産は、肩掛けの鞄の布を通して忍の脚に触る。
何かとても素敵なものがそこにある様な気持ちで、忍は駅に向かった。
