「どうぞ、お入りください」
宏幸の他所行きの声が聞こえる。
「それでは、お邪魔させてもらうよ」
戸口から聞こえてくる声は男性のもので、若い印象なのに貫禄を備えていた。
やはり弓香の言う処の『大先生』とやらなのだろうか。
「突然すみませんね、しかも昼食時に」
穏やかな声でそう言いながらダイニングに入ってきた男は、やたらに背が高く肩幅もあった。
一見柔和な人物の様で妙に迫力がある。
微笑んでいるのに、その目は鋭く人を刺していた。
「あ…、あ! お久しぶりです!」
珍しく弓香が動揺した様子を見せた。
どうやら共通して知っている人物らしい。
そして普段天真爛漫な奥方は、本当に一瞬だが誰にも気づかれないタイミングで、
「前以って話しておいてよ!」と言わんばかりに夫を睨み付けた。
「どうぞお掛けになってください」
そう言って客人に声をかけた弓香は、もういつもの彼女だ。
「川島君の奥さんは料理上手だね。うちも見習って欲しいものだ」
並べられた料理を眺めて、にこやかに客人は言った。
「恐れ入ります というか、佳月さんの奥様は料理する必要性ないじゃないですか~」
弓香が本当に珍しく曖昧な表情で笑っている。
かなり神経を遣う相手の様だ。
佳月と呼ばれた男は、突然忍の方に視線を向けた。
「初めまして」
節張った大きな手が差し出される。
(あれ…? 何か、見た事ある様な…?)
可笑しな話だが、忍はその人物の顔に見覚えは無かったのに、差し出された手に見憶えがあった。
「君の事は六年も前から知っているのに、こうやって顔を合わせるのは初めてだね。 よろしく、東条佳月です」
彼の手を取ろうと伸ばしかけた忍の手が、一瞬強張る。
その人物は、志月の兄だったのだ。
(ああ、そうか…志月の手と似てるんだ…)
「 初めまして…」
どう名乗れば良いのか分からなくなり、その後の言葉が途切れてしまった。
「あのな、この人は志月のお兄さんで 」
張り詰めかけた空気をフォローしようと宏幸が言葉繋ごうとした時、佳月が自らフォローを入れた。
「忍君だね。知ってるかな、君は一度私の息子だった事もあるんだよ」
穏やかな口調で佳月が言った。
その名前を名乗って良い、という許可だった。
「えっ!? あ、そうなんですか?」
しかし、彼がしのぶに告げた内容を、忍自身は全く知らなかった。
と言うよりも、今現在、自分の戸籍が何処に置かれているかさえ知らないのだ。
「まぁ単刀直入に言うと、これからの君がどうするのかを話合おうと思って来たんだ」
心臓が跳ね上がった。
その話はいずれ来るもの、と覚悟は出来ていたが、それでもやはりいざ直面すると、少し怖い。
「はい」
動揺を悟られない様に平静を装いつつも、早鐘の様に鳴る心臓の所為で、息が切れそうだ。
握った掌の中に嫌な汗が滲んでくる。
「そう緊張しないで いや、君まだ一度も病院に来てくれないからね、今日たまたま病室で見かけた川島君に強引に頼み込んで連れてきて貰ったんだが」
彼が口にした一言は、忍が考えていたものとは少し違っていた。
「はっ? え、あ…」
病院に一度も来ない とは。
(行ったらマズイんじゃ…?)
「気持ちが落ち着いたら、是非弟を見舞ってやってくれないか?」
あまりにも想定していたものと違う言葉が並んだ為、忍は言葉を失った。
「勿論、君がもう顔も見たくないと思っているのなら話は別だがね」
佳月はその沈黙を別の意味に受け取った様だ。
「あ…っ、そういう訳じゃ、ない です」
慌てて否定する。
相手は、予想に反して忍に友好的だ。
それなのにどうだろう、この居心地の悪さは。
「もし、家人と居合わせてしまう事に気兼ねしているのなら、伝えておこうか。私以外は日中に来る事はまず無いよ。皆、面会時間が終わって落ち着いてからしか行かないからね」
気遣ってくれているのに、何だかとても座りが悪い。
厳しい現実を突きつけられるより、何かもっとタチの悪いモノがそこにある様な、忍はそんな気味悪さを感じていた。
「は…い、それじゃ、日中にお伺いします」
どうにか答えてはいるが、逃げ出したい衝動に駆られる。
「 そして、こっちが本題なんだが…。私は、折を見て弟に、君の事やこれまでの過程を話すつもりではいるが、君自身の意志はどうなのかな? これを機会に自由になってみるのもいいかもしれない。それに対しては勿論、十分に保障はさせてもらう。逆に、君自身が構わないのであれば、原状回復するのでも構わないし 」
佳月の言葉はあまりにも感情を抑制していて、真意が分からない。
保障してやるから、離れろと言う事なのか?
このままの元の関係に戻っても構わないと言う事なのか?
(客観的に見て、醜聞だよ な)
名前だけなら誰でも知ってる様な財界の大物の家系。
本来は、自分の様な存在が望ましくないはずだ。
せっかく傷が抉れる前の状態にリセットされたのだ。
わざわざ原状回復させる必要も無い。
そう考えた忍は、きっとこれは前者を指しているのだ、と受け取った。
「 会って、そうしたら志月…さんが決めるでしょう」
普通に呼び捨てにしそうになり、慌てて敬称を付けた。
すると、それだけの事で彼の名はまるで別人の物の様によそよそしくなる。
「…そうだね」
気の所為か、佳月が一瞬残念そうに微笑んだ。
(あれ…? 違った…の、かな)
彼の望んだ回答ではなかったのだろうか。
「とりあえず、成るべく早く会ってやってくれるかい? 弟の答えは私には分からないが…ただ、どんな答えを出しても 私は君を放り出したくない。その時は、私の方へもう一度戸籍を戻しても構わない。こんな事は、独善的なのかもしれないが 」
(え…?)
以前宏幸に聞いた話に拠ると、志月の兄は現在の総裁のはずだ。
安易にそんな事を言って良いのだろうか。
「……」
「不思議かい? 私は、弟が君を引き取りたいと言った時止めなかった。むしろ協力したんだ。それは私の弟に対する罪悪感からだったが、それが君の人生を大きく捻じ曲げてしまった。 赦されない事だと思う。
弟にも私にも、君に対してそれ相応の責任がある」
そう言って伏目がちになった佳月は、やはり何処か志月と似ていた。
顔立ちや体格はまるで似ていないのに、血の繋がりと言うものは不思議だ。
「もし…お言葉に甘えられるのなら、高校はこのまま卒業したい です。時間は掛かりますが、学費は、返しますから」
もし佳月が本気でそれを言っているのだとしたら 遠慮がちに忍が言うと、佳月は苦笑した。
「それは当たり前の事じゃないか、そのまま大学にも進むと良い。優秀だと聞いたよ。
城聖の特進で常に十番以内とは大したものだ。学費も返す必要は無い。
君が感情や感傷の部分で信用し切れないと言うなら、言い方を変えようか。
法律上、君を扶養する義務がある。これなら分かり易いかい?」
そんな風に言葉を変えた佳月は呆れた様な笑みを浮かべている。
「は い…」
そう言われた方が確かに納得がいった。
納得はいったが、少し背中が寒い様な気持ちにもなった。
「随分複雑な表情だね。 それではいきなり畳み掛ける様に言っても何だろうし、君も色々考える時間が欲しいだろうし、今日のところはそろそろお暇させて貰うよ」
穏やかなのに張り詰めた空気を纏っているその男は、動作の一つ一つも悠然としていて自信に満ちている。
そんな人間が、先刻の様なヒューマニズムに酔った様な事を言う方が、むしろ不思議だった。
玄関に向かう佳月を、その場にいた全員が慌てて見送る。
最後にもう一度忍に病室に来る様に念を押して、歳の離れた志月の兄は川島家を立ち去った。