12月25日 ― 凍月 ―

scene.1

 千里を公園まで送り届けた帰り道、自分の足許を確認するかの様に、忍はゆっくりと歩いていた。
 薄い刃の様な真冬の冷気が、妙に心地好い。
 つい先刻聴いた千里の演奏が、まだ身体に残っていた。
 真っ直ぐ、心の奥の方へ一筋の道を通した、強い音。
 それでいて、身体の中心で柔らかく解ける音。
 忍は大きく深呼吸した。
(俺は、何を望んでる?)
 音の流れる方向へ自ら流れ込んでゆく様に、自らの奥を探る。
(何を…想う?)
 心の、一番奥底に沈んだ"答え"を追う。
 忍は、未だ志月の小さな箱庭の中にいた。
 いつ崩れても不思議の無い、砂の城の住人。
 ずっと長い間、彼の人はその庭の支配者だと思っていた。
 そうではなかった。
 彼もまた、箱庭の住人。
 彼自身が、いつ崩れるか分からない、砂の城そのもの。
 無意識のうちに、忍の口から溜息が洩れた。
 それは、自分の身分や立場を思ってのものではない。
 箱庭から逃れる事が出来ないのは、彼の方。
(俺は、ただ望んで、ここにいるだけ…)
 本当は、いつでも逃げ出す事も出来たはずだ。
 鎖で繋がれていた訳でもなければ、何処かに閉じ込められていた訳でもない。
 その場所から動かなかったのは、忍自身の意志。
 自ら、囚われている事を望んでいた。
(そうだ。俺自身が、あの人の傍にいたかった。…それだけなんだ)
 忍は、洋館へ続く真っ直ぐな道を、改めて見つめた。
 六年前、志月に手を引かれ、この道を歩いた。
 彼の手はとても温かくて、心地好かった。
 彼の傍にいる時、壊れているはずの世界が穏やかな色を見せ、優しい音を聴かせてくれる。
 それは、東条志月という人を通して初めて見る事が出来る世界だった。
 彼に出会うまでの間、忍は自分の心が壊れている、と思っていた。

 色も、質感も無い、モノクロの視界。
 ほとんど壊れた音しか拾う事が出来ない耳。
 ほとんど何も感じない心。

 忍はその頃、関わる人間を、
"触れられて平気な人間"と、
"触れられて平気ではない人間"に大別する事しか出来なかった。
 しかし、前者に属するのは僅か三人  朱実と、置屋の女将、その息子だけだった。
 その他の人間は皆後者だ。
 提灯の下に座っていると、様々な人間がその前を通り過ぎる。
 その中には、無遠慮に触れてくる客も少なくなかった。
 汗ばんでベタついた手の感触。
 生温かい体温。
 吐く息。
 その口から洩れ聞こえる、ザラついた雑音。
 強引に手を引かれ、連れ去られかけた事もあった。
 痛い程強い力で手を引っ張られているのに、悲鳴を上げる事ができない。
 どんな言葉で叫べば良いのか、分からない。
 困惑、恐怖、そういうものを、どう表現して良いのか分からなかった。
 いつも、ただ途方に暮れるばかりで、何も出来ない。
 そんな自分自身を含めた全てが、嫌悪の対象であった。
 人間を、世界を、そんな風にしか捉えられない自分こそが何処か壊れている。
 その頃の忍は、そんな風に思い込んでいた。
 そうではなかった。

  何も感じない訳じゃない。

  何も想わない訳じゃない。

 それ程のものが無かっただけ。
 そんな簡単な事さえも忘れてしまいそうになる程、世界は痛々しいものでしかなかっただけ。
 あの日  志月が初めて置屋を訪れた日、やっと忍はその事を知った。

 その人は、ちゃんと色彩を持って現れた。
 忍は彼と目が合い、彼の細かな表情まで読み取る事が出来た。
 その時、彼がとても驚いた顔をしていた事も見て取れた。
 僅か一瞬、彼の口から洩れた小さな声さえ聴き取る事が出来た。
 忍の目の前を通り過ぎ、店の奥へ押し込まれた彼の、残り香さえ感じる事が出来た。

 切れかけていた、忍と世界を繋ぐ細い糸。
 それを、彼が繋ぎ留めてくれたのだ。

(世界は、まだ壊れていなかった)

(この心は、まだ壊れていなかった)

 救われた、と思った。
(あなたがいる。  それだけで、どれだけ俺は救われてきたのだろう)
 忍は歩く足を止め、微かに星の瞬く空を見上げた。


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