scene.4

 ぽかんとしている千里の顔に、忍が苦笑している。
「今まで何の接点も無かったのに、突然そんな事言われても余計混乱するだろうな」
 千里は思い切り大きく頷いた。
「…うん。え? どういうこと?」
 中等部から同じ学校に通っているとは言え、クラスはおろか学科さえ違う。
 こんな事件でも無ければ、本来顔すら合わせる事も無かったはずだ。
「志月と出会ってから、彼の姿と声は認識出来る様になったけど、それは完全じゃなかった。
 あの人の姿と声以外は、依然、明瞭ではないままだった。
 それは、今思えば自分でそうしていたんだろうけどね。
 …志月に神経を集中し過ぎて、他処に回す余裕が持てなかったんだろうな」
 だから、外の世界へ出て出来る事は、本を読む事くらいだった、と彼は続けた。
「へぇ…。あれ? でも、今普通に話してるよね?」
 相槌を打ちつつ、千里は不思議そうに首を捻った。
「そう。今は普通に聴こえるし、見えてる。  千里がそうしたんだ」
「ええ!?」
 いつそんな途方も無い事をしたのだろう。
 千里には、全く身に憶えが無かった。
「悪いけど、全然憶えてないよ…」
 憶えていないだけで、実は何処かで会った事があるのだろうか。
「だろうね。だって、それはとても一方的なものだから」
「えー? それにしても…」
 まったく印象に無いと言うのもおかしな話で。
「今年の四月、入学式でソロ演奏してただろ?」
 彼が指したのは、高等部の入学式の事だ。
「え? あ…ああ、演ったっけか。そう言えばそんなの」
 式の中盤、新入生代表として三曲ほど演奏をした。
 そう言えば、そんな事が確かにあった。
  あの時、急にその音が耳に飛び込んできたんだ」
 そう話している忍の顔が少し眩しそうになる。
「あの人と出会った時は、俺が…捜していた。  迎えに来てくれる人…必要としてくれる人を…。
 だから、志月が現れた時、俺はすぐに気付く事が出来た。
 だけど千里は違う。
 求めていないのに、千里の音は飛び込んできた。
 それは、とても強い力だった。
 まるで堤防を押し流して氾濫する濁流みたいに問答無用で  
 それが音そのものだったのだろうけど、本当に圧倒的な力だった。
 そして、その向こうに雲一つ無い青空と、伸び上がる大樹が見えたよ。
 とても…驚いた。
 自分の記憶の中に、それ程鮮やかな色彩は持っていなかったから。
 急に、音も色も感情の波も自分の中に入り込んできた。
 そして、俺にはそれらが何なのかさえ分からなかった。  
 随分強引に扉が開かれて、防御出来なくて、それは初め、本当に痛みでしかなくて辛かった。
 だから、その痛みを千里の所為だって決め付けて、千里の事が嫌いなんだと思い込んでしまったんだ…」
 そして、それが本当にどうしようもなくなってしまった時に、千里が玄関先に立っていたのだと彼は言った。
 閉じられた世界の中で過ごしてきた忍は不思議な言葉を使う。
 嫌いな理由だと言うのに、それは明らかに賞賛の言葉だ。
 もちろん、彼自身は無自覚なのだろうが。
 その内容はとても音楽に対する表現とは思えないものであり、誉めている様にも聞こえないけれども、千里にとってはどんな専門家の評価より素晴らしい評価だった。

  自分の存在意義。

  正確には、音楽携わる人間としての存在意義。

(…ありがとう、神様!)

 平常、蔑ろにしてきたその名前を呼んでしまうくらいに、千里の心の荷物は一瞬にしてその姿を変えたのだ。


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