scene.2
正式な法的手続きを踏んで、その子供を迎えることが出来たのは、結局季節が秋に移ってからだった。
まず、戸籍の移動 厳密には、その子供に戸籍は無かった。
その為、新たに戸籍を取得する必要があった。
戸籍を無事取得すると、今度は住民票を取り、学校への編入手続きを済ませた。
兄が用意した弁護士は優秀だった。
一ヶ月余りの短い期間に、全ての手続きは完了させたのだ。
その間、志月自身は、いつでも迎え入れられる環境を作る事に専念した。
住居の確保 これは、志月の個人名義になっている、桜川の洋館があったので問題無い。
次に、器の中に中身を詰める作業に移る。
彼の為に必要な身の回り品を用意し、家具を入れ、部屋を整えた。
弁護士が書類的手続き全て終えるのと、志月が環境を整え終えたのは、ほとんど同時期だった。
そして九月。
今、志月の上着のポケットには、彼を遥か東の街へ招く為の、新幹線のチケットが二枚入っている。
再び訪れた歓楽街の周辺は、色付き始めた街路樹に彩られていた。
その佇まいは、夏に訪れた時よりも物寂しい雰囲気だ。
約一月半ぶりに置屋の前に立つ。
交渉は既に終っている。
今日は子供を引き取りに来たのだ。
「遠路はるばる、ようお越し下さいました」
女将が、玄関先で正座をし、深々と頭を下げた。
商売の時とは打って変わって真摯な様子に、少し驚いた。
そして、一階の最奥にある居間に通された。
「あの子のこと、よくお頼み申し上げます」
幾つかの書類に印鑑を押させたり押したり、ひどく事務的なやりとりをしているのが違和感な程、女将は丁寧に頭を下げた。
「 ただ、このお話を頂いたときにお話いたしましたとおり、男の子なんですよ? 本当に構へんのですか?」
改めて女将は念を押した。
この街では普通に人間が売り買いされている。
そして、その目的はほぼ限定される。
そもそも、置屋にいる朱実の様な女たちだって、その大半が売られてきた少女達だ。
「構いません。…買いに来た訳ではないんですから」
結果的に、支度金という形で置屋に支払われた代金があったとしても。
少し嫌悪感を感じながら、女将の問いに答えた。
「それよりも、ずっと一緒に暮らしていた、朱実さんは…?」
この席に、朱実が現れない事が気になった。
ずっと面倒を見てきたというのに、話も出来ないままで良いのだろうか。
「朱実は、ここには来んのですよ。
寂しい気持ちもあるでしょうし ああ、勘違いせんといてくださいよ。今回のお話、朱実が一番喜んでるんです。
こんな商売です。あの子もいつまでも現役ではいられません。
仕事が思うようにならなくなった後、自分じゃ満足に育ててやられへんことを、あの子が一番分かってるんですから。
ただ、別れの場にはおりたくないんや、言うて今日は出かけてしまいました。
私が名代として仕切らせてもらいますよって、勘弁したってくださいな」
もう一度深々と頭を下げた。
必要な書類の記入や手続きを終えると、女将は寮代わりにしているアパートの地図を志月に手渡し、そこに幸也がいるので、迎えに行って欲しいと言った。
ここへは戻らずに、そのまま連れて行くように、と言った。
志月はその言葉に無言で頷いた。
置屋を出る時、小学生くらいの少年に声を掛けられた。
「おい、オッサン!! お前、これでゆき不幸にしたら、地の果てまで追っかけて殺しにいくで! よぉ覚えとけや!!」
鋭い目付きの少年が立っていた。
実際の年齢より幾分大人びた顔をしている。
いきなり噛み付いてきたかと思えば、目の淵が赤くなっている。
「 しないよ」
唯一であろう友達と離れ離れになる少年の頭を軽く弾き、志月は置屋から離れた。
置屋が遠く見えなくなるまで、少年は真っ直ぐそこに立っていた。
女将が『ここへは戻らず』と言ったのは、彼の為でもあったのだろう。
この掃き溜めの様な町で、様々な想いが絡み合っている。
打算や猜疑、その裏にある思慕や慈愛。
まるで、人間という生き物の一番奥底に隠されている姿がそこには在る様な気がした。
晴れた空の下を、十五分も歩いただろうか。
古びたアパートの前に辿り着く。
二階建てのその建物の前に、子供が一人しゃがみ込んで砂に絵を描いていた。
何度も描いては消したのだろう。
足許の砂だけが黒っぽく、色が変わっている。
近づいて、声を掛けてみた。
「こんにちは」
あの日と同じ、空っぽの瞳が真っ直ぐ志月を捉える。
今日は、シンプルな青いシャツと膝丈のパンツ姿だった。
もちろん、髪も結っていない。
成る程、こうして見ると確かに少年に見える。
掛ける言葉が思いつかないまま、志月は無言で少年に手を差し伸べた。
少年は、まるで今日と言う日が来るのを知っていた様に、志月の手を握った。
「それじゃ 行こうか」
やっと掛ける事が出来た言葉は、短いものだった。
それに対して、彼は黙って頷く。
志月の手を掴む小さな手に、力が込もるのを感じた。
「まず、旅支度をしなきゃな。これから遠い街まで電車に乗って帰るんだ」
色付き始めた街路樹が通りを彩り、二人は手を繋ぎながらゆっくりと歩いて、その町から去っていった。