scene.5
蝉時雨が遠ざかり、花街を吹き抜ける風から湿気が無くなると、この時期特有の嵐が二度ばかり通り過ぎた。
吹く風には何処か侘しい秋の匂いが含まれ、徐々に色褪せてゆく景色は眠りの季節が近づいてくることを報せていた。
ゆきは、置屋のすぐ近くのアパートの前に座り込んで、砂に指で落書きをしていた。
まず、朱実の顔。
マーの顔。
女将の顔。
両親の顔も何度か描いてみたが、それはあまりにも曖昧な記憶で、描きかけては消し、また描きかけては消す。
そんな事を数度繰り返した。
その時、ふと思いついた。
代わりに、暑い夏の日、置屋を訪れたあの大学生の顔を描いてみてはどうだろう。
細い枝で、砂地に何本も線を引く。
不思議な事に、たった一回見かけただけの青年の顔を、ゆきは絵に描ける程憶えていた。
何を、言おうとしていたのだろう。
ゆきを見た時、彼はとても驚いた表情で、そして何か言おうとしていた。
彼がどうして驚いたのか、何を言おうとしたのか、それが気になっていたから顔を憶えていたのかもしれない。
それとも これは予感だろうか。
これから、何かが 起こる。
そんな、予感だろうか。
描きあげたばかりの絵の上に、不意に影が落ちた。
黒い羽根を広げた鳥の様な、大きな影が落ちてきた。
ゆきは、ゆっくりと顔を上げる。
(だって、ほら )
風に巻き上げられた、薄手のジャケットが羽根の様に広がり、はためいている。
「こんにちは」
見上げた先には、たった今砂の上に描いた大学生が立っていた。
「迎えに来たんだ。 一緒に、来るか?」
再び聞こえた声は、誰のものより鮮明な音でゆきの耳に届いた。
(ほらね…)
ゆきは、立ち上がると、膝の砂を手で払った。
そして、差し出された手を掴んだ。
伸ばされた手からあの日と同じ、ふわりと良い匂いがした。
待っていた。
迎えが来るのを。
誰かが、
迎えに来るのを。
大学生は、東条志月と名乗った。
結局、ゆきは彼に連れられ、置屋を離れる事になった。
朱実も、女将も、
「このままこんな町に留まるよりはマシだから」
そう言って、ゆきを送り出した。
そして、ゆきには新しい名前が与えられた。
それが、「東条忍」という名前だった。