scene.2
忍が書斎にお茶を運ぶ頃には、さっきの話題もとうに終わっていた。
二人とも何ら主旨の無い雑談に興じている。
忍はカップを並べ、そのまま退室しようとした。
「君も座ったら?」
それを、川島氏に引き留められた。
友人の言葉に、志月が一瞬眉を顰めた。
「別に構わないんだろ?」
志月が否を唱える前に、川島氏は答えを先回りして押さえた。
「まぁ…別に構わないが」
言葉とは裏腹に、志月があからさまに不機嫌な顔になっている。
忍は、やはり退室しようと思った。
「課題が 」
そう言い掛けた忍の言葉もまた、川島氏が先回りした。
「まあまあ。色々忙しいだろうけど、家主もいいって言ってるし、座んなよ」
どうも人の機微に敏い人物の様で、忍の退路もまた僅か一瞬の差で絶たれてしまった。
「ほらほら」
にこやかに笑いながら、彼は自分の左隣のシートを叩いた。
そこに座れという事か。
一瞬躊躇ったが、そこで差し向かいに座ったりしたら、相手も気が悪いだろう。
「は、あ…それじゃ、少しだけ…」
諦めて座ろうとした時、志月がテーブルの下から背凭れの無い予備椅子を引き出した。
「使え」
忍は、トレイを抱えたままそこに腰を下ろした。
何となく、馴れない人物の近くに寄るのは苦手だったから、志月の助け舟に忍は感謝した。
「何だ、まだ椅子が余ってたのか。せっかく隣に座ってもらおうと思ったのに」
川島氏が可笑しそうに笑った。
「お望みなら反対側にもう一脚あるが?」
憮然とした顔で、志月が答えた。
今のは、川島氏が志月を揶揄ったらしい。
彼は、志月が自分の私線の中にあるものに触られるのが嫌いだ、という事を知っている様だ。
この場合、彼のテリトリー内にあるものというのは忍自身を指している。
(何だ…俺、揶揄いの種にされてるのか)
忍はこっそり溜息を吐いた。
その後も、この二人の遣り取りは延々この調子で続いた。
「それで、忍君は今何年生?」
川島氏から突然話を振られた。
「は? ああ、高一ですが」
「へぇ、そうなんだ。一番楽しい時期だね。中坊よりは自由が利くし、受験もまだまだで」
川島氏はにこにこしながら忍にそう言った。
「はあ」
これが世間話というものなのだろうか。
その後、川島氏がどうでも良い様な質問を次々と立て続けに繰り出した。
学校はどうだとか、部活動はどうだとか、今の高校生は放課後どうしてるとか、そんな様な内容だ。
志月はと言えば、二人のの遣り取りには参加せず、黙ってただ聞いていた。
「そう言えば、仕事の話、しなくても良いんですか?」
いい加減答えるのが億劫になってきて、何とか逃れる方向を模索してみた。
「仕事の話は、君が帰ってくるより先に終わっちゃったんでね。後は無駄話の時間なんだ」
さらっと答えが返ってきた。
「あ…そう、ですか」
またもや、逃げる理由を失った。
「宏幸、そろそろ次の所に行かなくて良いのか?」
ぽつりと志月が言った。
「あ、もうそんな時間か。そんじゃ、うるっさいお先生のとこに行くかね」
川島氏が、立ち上がって大きく背中を伸ばした。
「さっさと行けよ」
川島氏のものと思われるカーキ色のコートを、志月が彼に向かって投げた。
「サンキュ。 あ、そうだ! 忍君、もうちょっと暇あるかい?」
コートに袖を通しながら川島氏が言った。
「は? はぁ、まあ…」
忍は、川島氏の唐突な質問に、反射的にそう答えてしまった。
「そうか、それは良かった! このオジサンにはこれからお仕事してもらわなきゃならないから、君、悪いけど駅まで案内してもらえないか」
彼はにこやかに笑っているが、この時点で彼は既に志月の口を先に塞いでいた。
声に出した言葉の外に、もう二つ言葉が隠れている。
一つは、忍に来て欲しいという事。
一つは、志月に来て欲しくないという事。
「来る時ここまで辿り着いたんだから、案内なんぞ無くても帰れるだろうが!」
友人の意図に気付いた志月が、断固として否を出した。
「え? 俺行きがけはタクシー使ったもん。場所がよく分からんかったから。帰りまでタクシー使ったら、勿体無いだろ?」
しかし川島氏の方は全く何処吹く風でそれを受け流してしまった。
彼の顔に張り付いてる穏やかな微笑が、今度こそ不敵の笑みに見えた様な 気がする。
(何となく分かってきた…。この二人が友達な訳が…)
これは既に結果の見えてる勝負だ。
到底太刀打ち出来まい。
忍は、諦めて書斎の隅に置きっ放しにしていたコートを羽織った。
「良いよ。俺送ってくるから」
これ以上時間を掛けても、どうせ結果は変わらないだろう、忍は思った。
川島氏は実に巧みに人の答えを誘導している。
自分が捻じ伏せられない反論を、まず相手に言わせない。
そんな相手に幾ら口で対抗しても、勝てるわけが無い。
「…あんまりおかしな話を吹き込んだら、お前のところの雑誌に大穴空けてやるからな」
送り出す瞬間、志月がそんな脅し文句を真顔で言った。
「…そりゃ、困るね」
送り出される友人の方は、意地の悪い顔で笑った。
忍は、二人の会話を終始不思議な気持ちで見ていた。
東条志月という人が、人とこんな風に会話している姿を見たのは、初めてだった。
ごく偶に、仕事仲間と称する人物がこの家を訪れるが、無駄話などまずしないし、打ち合わせ中に冗談が飛ぶなどという事も無い。
彼らは、気難しい顔で小難しい話をして帰ってゆく。
勿論、忍と会話している時も、彼は世間話をしたり冗句を言う様な事は無かった。
どうも、この川島宏幸という人物は、彼にとって特別でそして特殊な友人の様だ。