12月21日 ― 忍 ―

scene.1

 志月の帰国から明けて翌日  十二月二十一日の昼休み。
 昨日突然現れた上級生は、憤慨した様子で、再び忍の前に現れた。
「あの、何ですか?」
 朝からあまり調子が良くなかった忍としては、早々に退散願いたいところなのだが、相手の顔を見る限り、そうもいかない様だ。
「東条、昨日は覚えがないって言ってたけど、お前の家の門の前で二人で話してるのを見たって言ってる奴がいるんだ」
 言い逃れできるならしてみろ、と言わんばかりの口調だ。
(面倒だな…)
「だから、何だって言うんです?」
 相手が確信している事を、下手に誤魔化すのは良くない。
 それならば、いっそ開き直ってしまった方がマシだと思った。
「"だから"って…、何で隠したんだよ!?」
 忍の開き直った態度に、相手は少なからず憤慨した様だ。
「面倒くさかったからですよ。
 見たって言ったら、しつこく訊いてきたでしょう? 今みたいに」
 ここまでは、言い訳としておかしくない。
 自分自身に何度も確認を取りながら、忍は慎重に言葉を探していた。
「別に、しつこくしてるつもりはないぞ。普通に訊いてるだけだろ」
 激昂、と言うには、相手の反応は未だ冷静だった。
(早く、何処か行ってくれないかな…)
『怒り心頭のあまり退場』というのを狙ってみたのだが、思いの外彼は冷静だ。
(ムカつかせるのは結構得意だと思っていたんだけど  
 特に、この特進クラスなどにいると、自らの成績に追い込まれた級友に、訳も無く噛み付かれる事は珍しくも何ともない。
 そんな時忍は更に相手の火に油を注ぐ様な態度を返してしまうのだ。
 わざとではないが、そういう場面に相応しい言葉を敢えて選んだりもしない。
「俺にとっては十分しつこいんです。金曜日でしょ?
 いましたよ。同じ制服をきた学生がうちの門のところにね。これで良いですか?」
 そう言い捨てて、忍は踵を返した。
 その瞬間、右肩を強く捉まれ引き止められた。
「待てって!」
 どうして自分の行いが正当だと信じて疑わない人間は、こんな強引なのか。
 その事自体が傲慢なのではないのか。
 忍は眼前の上級生に対して、そんな疑問を感じた。
 もちろん、忍自身も自分が正しいなどとは欠片も思わない。
 捉まれた肩から、言い表せない不快感が滲む。
 ブラウスの下に染み透ってくる生温かい体温。
 頭の芯が冷たくなる。
 目の前の人物が、薄暗く翳んでゆく。
 酷い耳鳴りが聴覚を支配する。

 瞬きの奥でフラッシュバックする、昨夜の記憶。
 身体に染み付いたそれとは異なる体温、感触。
 忍の身体が、激しいアレルギー反応を示した。

   他人に触れられる事は、この上なく不快だった。

 視界から明度と彩度が失われた次の瞬間、忍は地面に膝をついていた。
「大丈夫か!?」
 慌てた声の上級生が、忍の腕を掴んで引き上げる。
  何だお前、酷い顔色してるぞ」
 紙の様に白い、という表現が当てはまる程、今、忍の顔から血の気が引いている。
「離して下さい。その、手」
 北尾の手を払うと忍は大きく息を吐いた。
 身体に触れられる事が、より嘔吐感を誘っている。
 朝よりも遥かに体調は傾いていた。
「お前、その口の悪さ今のうちに直しといた方がいいと思うぞ。いつか大怪我するから」
 呆れた様に溜息を吐くと、上級生  北尾は、忍の服の制服の袖を掴んで歩き始めた。
「あの!? 何処行くんですか」
 さすがに、これには忍も驚いた。
「保健室に決まってるだろ。体調の悪い奴は保健室に行くんだよ、学校では」
「はあ!?」
 一瞬冗談かと思ったが、北尾は大真面目の様だ。
 そしてようやく彼が何をしようとしているのかは解った。  解ったが、一体何を考えているのか、全く理解出来ない。
「ちょっと、待って下さい! いきなり何を他人の世話焼いてるんですか?」
 掴まれた袖を外そうとすると、北尾は足を止めて振り返った。
「俺は確かにお前のその態度にムカついてるし、親しくも何ともない他人だよ。けど、俺は自分で呆れるくらいお節介なんだ。  悪かったな!」
 今度は北尾の方が開き直った。
「あの、ちょっと!」
 忍が立ち止まろうとすると、『特進イコール勉強家』の図式が浮かんだらしく、北尾が更に言葉を付け加えた。
「東条、お前な  そんな顔色で午後の授業が、とか言うなよ」
 その後は、もう問答無用と言わんばかりの勢いで、再び前を向いて歩いた。
 忍は今までこんな風に人に世話を焼かれたりした事が無かった為、この彼のお節介に対してどう反応して良いのか戸惑っていた。

 北校舎の二階、西の一番奥に保健室はあった。
 しかし、辿り着いてみると校医は留守だった。ドアノブに、出張中の札が掛かっている。
「しょうがないな」
 北尾は頭を掻いた。
「ちょっとここで待ってろよ」
 忍に動かないよう言い残して、北尾は保健室の前を離れた。
 そして、約十分後、忍と北尾自身の荷物を提げて戻ってきた。
「もう早退届出したからな。お前の荷物これだけかな? 制服のジャケットはあったけど、コートが見つからなかった」
「あ、コートは着て来なかったんで」
「この寒いのに!? じゃあ、しょうがないから俺の着とけ」
 持って来た荷物のうち、北尾は自分のコートだけ忍に渡した。
 他の荷物は、忍の分まで彼が持っていくつもりらしい。
「あの、まさか…先輩も一緒に早退するつもりですか?」
 北尾の様子を見ていて、まさか、とは思いつつ訊ねてみる。
「俺は、お前を家に送り届けたらまた戻ってくるけどな。万が一戻って来れなかったらそのまま帰れるように、念の為に荷物は持ってきた。ほら、早くコート羽織れよ」
 もうこれ以上言い返す言葉も出てこなくなり、忍は大人しく北尾のコートを羽織った。
「本当は、千里にも嫌がられてるんだよな。オレのこのお節介な性格。でも、こればっかりは性分っていうか  
 自分に呆れていると言って、北尾は笑った。
(ああ、成る程ね  
 昨日、北尾の話をした時の、千里の反応を思い出した。
 安堵した様な、その事が照れくさい様な、そんな顔だった。
 二人の間にある信頼関係  それがあるから、彼はああやって平然としていられるのか。
「嫌がってないと思いますよ」
 言ってしまった後、思わず口を押さえた。
 ここまで慎重に言葉を選んできた忍にしては珍しく、口が滑ったとしか言いようがない。
 しかも、狼狽えてしまったので誤魔化すのはかなり難しくなった。
「…東条、千里の事、本当は知ってるのか?」
 案の定、北尾はすぐに反応した。
  いいえ」
 何も気の利いた言い訳は思いつかず、ただ否定するのが精一杯だった。
 しかし、否定した事で余計に確信を持たせてしまったらしい。
「お前、絶対何か知ってるだろ」
「……」
 あまり忍は嘘が上手くはなかった。
 事前に考えを練っておかないと、芝居が出来ないのだ。
  まあ、今日はいいや。とりあえず、うち帰らないとな。明日また聞かせてくれよ」
 もう、これ以上「知らない」で通すのは、厳しい様だ。
(しまった…。ついうっかりした…)
 お人好しの北尾は、体調を崩している忍に遠慮したらしく、自らの宣言通りその日は何も訊いてこなかった。
 しかし、明日以降の追及は厳しくなっていくのだろう。
 学校から歩いて十分程の帰路、北尾の追及をどうやってかわせばいいのか、そればかり考えていた。


  

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