scene.2

 夜の七時  
 忍は千里の夕食を運んでいた。
 手を縛ってしまってあるので、食事には手で掴んで食べられるものを選んでいた。
「千里、夕飯だけど」
 扉を開けると、千里は珍しく起き上がってベッドの縁に座っていた。
 フリかもしれないが、彼は食事を持っていくと眠っている事が多い。
「あのさー、ご飯はいいけど…いい加減これほどいてよ。もう四日もこのまんまなんだよ!? いまさら逃げようなんて思ってないから!」
 千里は膨れっ面で忍に訴えた。
「それが嘘じゃないって、誰が言える?」
 冷ややかな口調で忍は答えた。
「……もう! 分かったよ。
じゃあ、そのかわり  ご飯食べさせてよ」
「?」
 一瞬、千里の台詞の意味が理解できず、忍は怪訝な顔になった。
「手がこんなんなってて食べられる訳ないじゃん。口まで運んでよ」
 挑戦的な口調で、同じ意味の事を別の言葉で繰り返した。
「!」
 要求の内容を理解した瞬間、忍の頭の中が一瞬真っ白になった。
「よくこの状態でそんな冗談言えるな」
 やっと、喉から絞り出された声は、普段のものとトーンがまるで違った。
 思考が寸断され白くなった頭の中に、今度は熱の塊がうねる様な怒りが湧いてきた。
「ふうん、君でもそんな顔するんだ。
 初めて見た。君が感情的になるとこ」
 一瞬一瞬戸惑った顔を覗かせながら、それでも千里は挑発を続けてきた。
 忍は、自分の頬が高潮するのが分かった。
 感情を露呈する事。
 それを指摘される事。
 どちらも忍にとって、耐え難い苦痛だった。
 それなのに、千里はいつも  あまつさえ、今はわざとそれをした。
 忍の感情を波立たせる。
(どうして!)
 忍は思わず千里の口を塞いだ。
 これ以上千里に喋らせたくなかった。
 喋らせては、危険だと感じた。
 このまま話していると、理性の防波堤が決壊すると感じた。
 いや、それとも  とうにそれは臨海を越えているのかもしれない。
 耳の奥で骨が軋む音が聴こえる。
 視界にノイズが走り、まともな像を結べないでいる。
(消えろ!)
 自分ではない、別の自分の命令が聴こえてくる。
(消せ!)
 脳内で氾濫する感嘆符。

  何かが  

  ひび割れる  

  壊れてゆく  

「…! …!」
 口と一緒に鼻まで塞がれてしまった千里が、忍の腕を外そうと必死にもがいていた。
 その姿さえ忍の視界の中では、ノイズだらけの別世界の様に映っていた。
 そう、彼の感情の波に、現実までもがこの瞬間彼方へ追いやられた。
 頭の芯に電流でも流された様な思考の痺れ、抗し難い衝動。
 それらは忍の手には持ち馴れない凶器だった。
 感情と呼ばれるもの全てが凶器だった。
 徐々にその波も治まり、思考を麻痺させていたノイズや雑音が取り除かれ、切り離された思考の中から現実へと戻されていった。
 やっと我に返った忍の腕を、痛いくらいに千里の腕が掴んでいた。
 そして、自分の腕が千里の口を塞いでいる事に、やっと気付いた。
 慌てて、千里の口から手を離した。
 千里は激しく咳き込み、大きく肩を上下させる。
「はあっ、…なんだよ、すご…ちから…」
 涙目で大きな呼吸を繰り返している千里の姿がとても不思議だった。
 目の前で起こっている事が、上手く認識できない。
「あ…」
(これは、俺がやった…?)
 忍の手が震えていた。
 自分が、信じられなかった。
(どうして、こんな…?)
 自分の中に制御しきれない衝動が起こると言う事も、現実にそれが起こってしまった事も、どちらも信じられなかった。
 全身から血の気が血の気が引いていく。

  怖い)

「…忍…?」
 ようやく息を整えた千里は、忍の様子がおかしい事に気付いたらしく、不安げに彼の顔を見上げた。
「忍」
 実は、千里に名前を呼ばれたのはこの時が初めてだったのだが、忍はその事に気付く事が出来なかった。
 震えの止まらない忍の手を、千里がそっと握った。
「 …心なんて…どこにも、在りはしないんだ……」
 それは、消えそうな小さな呟きだった。
 手の震えが止まるまで、忍の手は千里に握られたままだった。
 不思議と嫌悪感は無く、仄かに暖かい様な気さえしていた。
 しばらくして手の震えも治まり、忍はどうにか平静を取り戻す事が出来た。
「…落ち着いた?」
 その問いに答える代わりに、忍は千里の手をそっと外した。
「顔色、悪いね」
 繋がれたままの両手が忍の頬に触れた。
 千里の手は、子供みたいに温かい。
 忍はとっさにその手を払ってしまった。
 正直な処、千里に対してどういう態度を取れば良いのか分からなかった。
 察したらしく千里は苦笑いして見せる。
 そして先刻から忘れ去られたままの夕食を指差す。
「せっかくだから、ご飯食べていい?」
 話題を切り替えてくれたのだ。
「…どうぞ」
 正直、忍はほっとしていた。
 まだ少し頭の中が混乱していて、次にどうすべきかを判断出来ない状態だったから。
 こうして千里が切り出してくれなければ、そのまま一晩でも動けなかっただろう。
「あのさぁ、食べさせろとは言わないからさ、せめて手渡してくれる? ホントに食べるの難しいんだ」
 最初の挑戦的な口調とは違い、今度は本当にごく普通に手助けを求めていた。
 このささやかな要求に対して、今度は怒りを感じる事も無く忍はそれを受け容れた。
 料理を一つずつ手渡していて、忍はふと今日教室を訪れた上級生の事を思い出した。
「今日、俺のところに千里の事を訊きに来た人がいた。家の前に立っているところを見られたんだろうね」
「ああ…、そう言えば自転車が数回通り過ぎたっけ。誰が訪ねてきたの?」
 それが誰なのか、訊ねる前から千里には解っている様子だった。
「二年生で、北尾って名乗ってた」
 学校で、千里の事は一切騒ぎになっていない以上、千里の足取りを追っている人間がいるとしたら、それは、家族から直接知らされる人間。ごく親しい人物という事だ。千里にとって、きっと彼は何か特別な人間なのだろう。
「……。
 ……そう」
忍の答えに対して、千里は短くそう答えただけで、それ以上何も言わなかった。感情表現豊かな彼にしては珍しく、その表情を変えなかった。


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