scene.2 疑惑
翌朝、普段は日誌だ報告書だと何かしら居残る七海だが、申し送りを済ませるなり、さっさと着替えてそそくさと退勤してしまった。
要の方は、主が不在と分かっている家に早々に訪れる必要性も無いので、医局に居残り、レポートの下準備をすることにした。
「ありゃ? 遠藤ちゃん、七海ちゃんと一緒に帰らなかったの? 最近じゃ珍しいね」
一緒に当直勤務に就いていた、麻酔医の小沢が医局に戻ってきた。
「あ、ちょっとレポートも差し迫ってきたので、調べものを…。小沢先生こそ、残ってらっしゃったんですね」
「いや、実は急な欠員で午後から第一外科の手術に入らなきゃならなくなっちゃって…。さすがに家まで帰ってる時間は無いけど、とりあえずちょっとでも眠って体力回復しないとマズイし、仮眠室借りようかと思ってね」
「うわ…それはキツイですね。お疲れさまです」
「まぁ、麻酔科も大概人手不足だからねぇ…。あ、そう言えば関係無いけど、遠藤ちゃん、七海ちゃんとプライベートで会ったり話したりする?」
唐突に小沢が私生活に話題を振ったので、要は驚いた。
「えっ、ええっ!? な、何でですか!?」
思わずデスクの上の筆箱をひっくり返してしまった。
小沢の背後の長椅子で、寝転がって週刊誌を読んでいた医局長が声を殺して笑っている。
「何もそんなに慌てなくても。いやね、さっきMEの崎谷くんと一緒に朝飯食べてたんだけど、たまったま、七海ちゃんが俺らの食事してる店の向かいのホテルに現れてねぇ。ほら、S駅の方に有名な高級ホテルあるでしょ、あそこ」
高級ホテル。
はい??
どうも人物像と目撃場所がちぐはぐだ。
「あれは誰かと待ち合わせしてる雰囲気だったね」
誰と?
要は首を捻った。
「でね、遠藤ちゃん、何か七海ちゃんから聞いてない? 最近彼女が出来たとか、なんかそういうの」
すみません、それは自分です。 などと言う訳にもいかない。
「あ、あ、あのっ、カンチガイとかじゃないですか? ホラ、どこか出掛けるつもりで、タクシー待ってたとか!」
「いやいやいや、それは無いよ、遠藤ちゃん。しきりに時計見てたし、妙にそわそわしてたし 明らかに待ち合わせだよ、あれは。デートの約束でもしてたんじゃないのかな?」
待ち合わせ。
そわそわ。
(何ですと!?)
「そう考えてみれば、最近の七海ちゃんは一時に比べて随分丸くなったし、何かいいことあったんじゃないかなぁと、思ってたんだよね。最近やっと落ち着いてきたけど、一時荒れてたからねぇ」
しみじみと小沢が言った。
「荒れて…?」
荒れると言われると、要の中では、それこそ大昔のドラマではないが、脱色したつんつん頭で学校の窓ガラスを割って歩いたり、無免許でバイクを乗りまわすような想像しかできなかった。
「??????????」
(だ…駄目だ。荒れてる七海さんが想像できない)
要が首を捻って唸っていると、小沢が察したらしく、苦笑いしながら言葉を付け足した。
「もちろん、表面的には今とそう変わんないよ。研修医で入ってきた頃から彼は模範生だったから。何て言うか…そうだなぁ。ギスギスしてたんだよね。何となく。いつもピリピリしてたし、後輩に対しても厳しすぎるところあったし」
言われてみれば、入局当初の七海はそんな感じだったような。
とにかく厳しくて、30分に一回はカミナリを喰らっていたような。
何しろ、鬼軍曹と仇名されるほどの厳しさで有名だったくらいだ。
それが、先月も朝日の実習を受け持っていたが、随分柔らかい指導だったような気がする。
もともと学生や実習生には研修医相手ほど厳しく当たらなかったが、それにしても、自分の時と比べてあまりにも対応が優しかった。
「それに、ま…私生活でちょっとね」
要がちょっと昔の事を思い出していると、ぽつっと小沢が付け足した。
「私生活??」
ますます首を傾げる。
あの生活でどうやったら荒れるのか。
その方が不思議だ。
「遠藤、本人に聞け、本人に」
医局長が横槍を入れた。
「あ、そうだね。あんまり生徒にする話でもないか」
小沢が引っ込めたことで、この話は終わった。
「まぁ、だからってんじゃないけど、七海ちゃんもそろそろ落ち着いてもおかしくない年頃だし? イイヒトでも出来たかなっと思った訳だ。遠藤ちゃんなら一緒にいる時間も長いし、何か聞いてない?」
小沢が、興味深げに要の顔を覗き込んだ。
「ええ、いや…そんな話題は…」
徐々に追求ムードを帯びてきた相手に、要はますます答える言葉を失う。
その様子を見ていた医局長が、肩を揺らせて笑っている。
「えーんどう。お前、このまま医局に居残ってると、日直の業務に巻き込まれるぞ」
「あっ、そうだよ遠藤ちゃん! 日勤で扱き使われちゃうよ。調べものなら、大学でやったほうがいいんじゃない?」
桜川病院の母体である城聖学園大学医学部学舎は、病院の真裏だ。
そもそもが病院自体が大学の研究機関であるため、卒業生も皆、レポートだ、論文だと、気軽に使っている。
「そうそう、早く帰んな。おまえの場合、生きた症例集に訊いた方が早いだろ」
意地悪くにやにや笑いながら、医局長が言った。
生きた症例集、即ち七海のことである。
(このオヤジ…)
彼は助け舟を出してくれたのだろうが、素直に感謝する気になれないのは何故だろうか。
「お気遣いどーも。それでは、お先に失礼します!」
デスクの上の荷物を取りまとめ、要は立ち上がった。
「おつかれー。レポート頑張れよー」
のほほーんとした声で、事情を知らない小沢が要を見送った。
要は、自らの足を大学へ向けたものだか、S駅近くの高級ホテルに向けたものだか、病院の通用門の前でしばらく迷っていた。