Recollection.25 月旅行

 20時。
 桜川病院、第一外科。
 七海は、日直を終えてロッカーへ向かっているところだった。
 日に日に明人から呼び出される頻度が増し、気付けば、ほとんど毎日何らかの形で顔を合わせていた。
 遠慮のない明人は、平気で遠くから呼び出してくる。
 夜に会えば、朝まで寝かせて貰えない。
(さすがに、身体がしんどい…)
 それでも、呼ばれれば応じてしまうのだ。
 今夜も、この後会う約束をしている。
 おそらく、彼はもう待ち合わせの場所に来ているだろう。
 病院近くで彼と待ち合わせをする時、いつの間にかそれはあの児童公園が定位置になっていた。
「ヤバイなぁ…もう一時間近く過ぎてる」
 通常の勤務終了時刻より、少々遅れていた。
 それでも、そのまま当直勤務に引きずり込まれなかった分、いくらかましだった。
「あら、今日は日直でアガリですか?」
「あ、お疲れ様です。田島さんは当直ですか?」
 たまたま廊下で行き合わせた田島が、七海に声を掛けてきた。
「ええ。常盤木先生はこれからお出かけかしら?」
「えっ? 何でですか?」
 確かに、今夜も明人と待ち合わせをしている。
 しかし、あれ以来継続的に明人と会っている事は、田島にも話していない。
「いえ、何となく。常盤木先生、浮き浮きしてらっしゃるんですもの」
 浮き浮き。
「そうですか!?」
「ええ。最近ますますお忙しいみたいですけど、何だか楽しそうですよ? さては、可愛いガールフレンドでも出来たのかしら?」
 ひやかすような様子ではなく、非常に微笑ましそうに彼女はそう言った。
 言われた七海は、心中複雑としか言いようがない。
(まず、ガールフレンドじゃないし)
 とてもではないが、相手は同性です、とは言いにくい。
 更に、彼女も知っている津守明人だとは、もっと言いにくい。
 その上、今更基本的なところに気付いてしまった。
(そもそも、付き合って…ないかも)
 会えばシーツの上に転がるだけで、何の確約も無い。
 恋愛ですらないかもしれない。
 半月以上休み無しで続く勤務の中、
 無理矢理時間を作って、
 仮眠する為の時間すら割いて、
……何してるんだか。
「あらららら。そんな困った顔しなくても。別に言いふらしませんよ?」
 少しピントのズレたところで彼女がフォローの言葉を挟んだ。
「いえ。ほんとに、そんなんじゃないんですよ。多分…」
 その瞬間、会話を切るように七海のポケットで院内用PHSが鳴り出した。
「あら、PHS鳴ってますね。それじゃ、私はこれで。常盤木先生、お疲れ様でした」
「田島さんこそ、お疲れ様です」
 ナースステーションへ足を向けた彼女を見送りつつ、PHSの通話ボタンを押す。
「はい、常盤木です」
『七海か? 悪いんだが、頼んでた資料整理、明後日持ってきてくれないか』
 恭介だった。
「え?」
『約束より1週間早いが、どうせお前のことだ。大方終わってるんだろう? 少々残っている程度なら、あとはこっちで何とかするから』
 今月いっぱいで仕上げると言った、資料整理。
 実は、あまり進んでいない。
「あの…」
『うん? ああ、受け渡しなら、医局に持ってきてくれれば良いぞ。別にマンションまで持ってきてくれても、どっちでも良い』
 恭介は、七海が間に合わないかもしれないなんてことは、まるで頭に無いようだ。
「…分かった。明後日だね」
 仕方無い。
 徹夜だ。
『七海、お前  
「何?」
『いや、最近休憩中よく消えるらしいな』
「え?」
『いや、休憩中よく外出してるって聞いたんだが』
「ああ…120分貰った時ね。気晴らしに外に食べに行ったりしてるけど? 呼ばれれば10分以内に戻れる距離にはいるよ。  外食してると、マズイかな?」
 就労規約に外出禁止とは書いていないが、休憩時は院内からあまり外へ出ないことが、暗黙の了解になっている。
『いや…まあ、規則じゃないからな』
 規則ではない。
 だから恭介も強く言わなかったが、本当は休憩時間の外出が喜ばれない事は、七海自身も知っていた。
「それだけ?」
『ああ』
 何かまだ含んでいる様な恭介の声音を、敢えて無視した。
「とにかく、明後日には資料は恭介さんのデスクに持っていくよ」
 通話ボタンを切ると同時に、ずっしり肩が重くなった。
(『大方終わってるだろ』って…買いかぶりすぎだろ、それは)
 一体恭介は七海に何を期待しているのだろう。
 大学での成績は、せいぜい中の上。
 取り立てて秀才ではなかった。
 医師国家試験などは、合格率平均80%。
 司法試験ほどの難関ではない。
 今現在も、ほかの研修医たちと比べて特別抜きん出ている訳でもない。
 恭介の期待は、自分には少々荷が勝っている。
 七海は、ずっとそう思っていた。
(まあ、でも、今回は今までサボってた僕が悪いよな)
 とにかく、大急ぎで終わらせなければ。
 しかし。
 おそらく、既に所定の場所で七海を待っているだろう明人との約束。
 今更それも断り辛い。
 いや、断りたくないのか。
 無理をしてでも、僅かの時間でも、会いたいのは七海の方。

 最初追われる立場だったはずの七海は、いつの間にかすっかり追う立場に回ってしまっていた。

 大急ぎで着替えた七海は、待ち合わせ場所である児童公園に向かって走った。
 公園に辿り着くと、明人の車が、生い茂る木の陰に見える。
 全開にしている窓から、煙草の煙が洩れていた。
「ごめん、遅くなった」
 運転席側に回って声を掛ける。
「遅いよー、1時間待ったじゃん。病院まで迎えに行こうかと思った」
 非難がましい言葉の割に、明人の顔は笑っていた。
「ごめん」
 半分冗句で言っているのは分かるのだが、少々返しに困る。
「早く乗れば? 時間もったいないし」
 立ち往生していたら、苦笑いとともに乗車を促された。
「相変わらず、疲れた顔だねー」
「そう思うなら、毎日呼び出すのは止めて欲しいんだけど」
「だって、お前、呼んだら出て来るじゃん」
「…呼ばれるから出てくるんだろ」
 確信犯はタチが悪い。
「あらら、おまけに今日は苦虫噛み潰したみたいな顔になってる」
「そ…そうかな」
 七海は慌てて自分の頬を擦った。
「もしかして、イヤだった?」
「いや…そんなんじゃ…」
 実際、明人に呼び出されるのは口で言うほど嫌でも無いのだ。
 この時、七海がそんな顔をしていたとしたら、それは明人のせいではなく、さっき受けた恭介の電話のせい。
 仕事自体は良いが、あの過剰な期待はどうにかならないのだろうか。
 いっそ、逃げてしまいたい。
「このまま、どっか遠くへ行っちゃおうか」
「えっ?」
 まるで、心の中を読まれたみたいな言葉だった。
「ドライブ。どぉ? たまにはいいんじゃない?」
(あ、なんだ…)
 七海は脱力した。
 でも、たまに遠出するのもいいかもしれない。
(あ、ダメだ。一時間以内に帰れるところじゃないと)
 これは就業規則。
 呼び出された時、一時間以内に戻れなければならない。
「どこまで行けるかな…」
 一時間で、戻れるところ。
「お望みなら、月まででも」
 そんな気持ちを知ってか知らずか、おどけた様子で明人が答えた。
(一時間じゃ、帰ってこれないな)
 七海は苦笑した。
「月は月でも、大月市とか言うなよ」
 彼の冗句に、七海は憎まれ口で応えた。
「あ、何でわかんの。山梨県大月市」
 相手も心得ている。
「分かるよ。中央道1本で行けるし」
「まぁ、それは冗談として、どうする? どっか行きたいところある?」
 明人は本当に月まで行きそうだ。
「そうだな、どこだろ」
 彼の船に乗ったら、自分も月まで行けるだろうか。
 七海は自分の心がどんどん地上から離れていくのを感じていた。

 このまま、どこか遠くへ。
 何もかもリセットして。


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