Recollection.24 シルシ

 明人と一緒にいた頃は、とにかく忙しくて、全てにおいてあまり細々とした記憶は残っていない。
 ただ、漠然と肌身に感じていた感覚だけがその頃の事を想起させるだけ。
 それでも、幾つかの印象深い出来事というのは、その部分だけ時間を飛び越えたように、鮮明に残っている。



 それは、七海が明人の部屋を訪れるようになって、半月くらいの事だった。
 やはり、その日も七海は、僅かに空いた時間の隙間を縫うようにその部屋を訪れていた。
(ヤバイ。本当に論文の資料整理、進んでない)
 恭介には今月中に仕上げると言ってしまった。
 事実、こんなサボってなければとっくに終わっているはずだった。
 ふとそんな事が脳裏をよぎり、七海の気持ちが明人から僅かに逸れた瞬間。
「あ、なんか他所ごと考えてる?」
 不服そうな顔で睨み下された。
「あ、ごめん。一瞬、ちょっと…」
「ちょっとー、それ、男的に一番傷つくんですけどー!」
 最中というより、直後だったのだが、そんなタイミングで考え事されたら、確かに傷つく  かも。
「ごめん…」
「何だよ、もー。そんなヤツは、こうしてやる!」
「えっ、ちょっと待って! ぎゃ、やめろっ! ごめんってば! くすぐったい!!」
 真剣に謝ったら、思い切りくすぐられた。
 沈みかけた空気が、一瞬で引き戻される。
「まいったかー」
 彼はいつも笑っている。
 もちろん、この時も笑っていた。
 明人は、いつもそうだった。
 深刻な空気とか、重い沈黙とか、そんなものを嫌っていた。
 ただ気楽に、その場が楽しくて、気持ち好いと思えれば、彼はそれで満足だった様だ。
「まあ、そんな事は別にいいんだけど。それよりさ、七海、タトゥー入れていい?」
 突然、明人が話題を切り換えた。
「タ…? は??」
 一瞬、その単語の意味が分からなかった。
「刺青、入れていい?」
 そうしたら、明人はそれを日本語で言い直した。
「! 駄目に決まってるだろ!」
「えー、何でー?」
「医者がそんなもの彫ってたら免職ものだよ!」
「いーじゃんよ。目立たないとこにするからさ。この辺りに藍色でハートとか」
 そう言いながら、明人が七海の右の内腿をつついた。
「余計恥ずかしいよっ!」
「誰に見せんの、こんなとこ」
 明人が眉を顰めた。
「誰に、って…着換える時とか、温泉とか…あ! 温泉入れて貰えないじゃないか! そんなもの彫ったら!!」
 七海は実は銭湯や温泉など、大きな風呂が大好きだ。
 刺青なんか入れられたら、入場お断りされてしまう。
「つまんねぇの」
 真剣に拒否したら、本気でつまらなそうな顔をされた。
「…何でそんなの入れたいの」
 七海は呆れ気味に溜息を吐いた。
「シルシだよ。俺のだよーって一目で分かるように刻んどけば、誰もちょっかい出さないだろ。例えば出しても、引くでしょ? こんなとこに彫り物あったら」
 非常に身勝手かつ子供じみた答えが返ってきたので、七海は本当に呆れた。
「ちょっとちょっとちょっと! 物理的にそんな証明してどうするんだよ! そんなの、気持ちがそこになきゃ意味無いだろ!」
「気持ちなんか…外から縛っておかなきゃ、あっと言う間に離れる」
 明人が皮肉な笑みを見せた。
 いつもの、軽薄な笑顔とは違う。
 斜に構えた、シニカルな顔。

「明人も?」
「俺?」

『物理的に縛っておかなければ、あっと言う間に気持ちが離れる』

「何かで縛っておかないと、明人の気持も離れるのか?」
「さあ?」
 七海の問いに対して、そら恍けた顔で、明人は他所を向いた。
 そうだとして、一体何で縛れば良いのだろう。
 人の心を縛るもの。
 明人は、そこに、所有の印を刻もうとした。

 背けた横顔に垣間見えた執着心。
 強引な割にドライだと思っていた彼の、意外な一面。
 七海の中にも同じ感情が在る。

 明人が七海の手首に最初に付けたシルシは、時の移りに任せて、緩やかに赤い色を失い始めていた。


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