Recollection.22 あみのなか

 明人の車は、今朝送ってきてもらった時と同じ児童公園の脇に停まった。
 朝より一層人けが無く、静まり返っている。
「そう言えば、何でうちの病院の近くに?」
 明人は、あの電話から本当にすぐに現れた。
 よほど近くにいたようだ。
「え? だって、俺の働いてる店、駅前だもん」
 不思議な事を聞く、とでも言わんばかりの顔で、明人が言った。
「あ…そう」
 よく考えれば、彼は仕事中に負傷して救急外来に飛び込んできたのだ。
 職場がそう遠いところな訳が無い。
 少々間の抜けた質問をしてしまった。
「あ、今更だけど、明人は何も買わなくて良かったのか?」
 コンビニから直行でここまで来てしまった。
「俺は店の弁当もらってきたから」
 明人が、やたら大きなボストンバッグの中から折詰の弁当を取り出した。
「店の弁当??」
 美容師ではなかっただろうか。
「さっきまでミーティングでさ。これ、店長のオゴリメシ。『これからモデルさんと打ち合わせ』っつって抜けてきた。そん時ついでに」
「あ、そう」
 この時間までミーティング、美容師もなかなか大変そうだ。
(でも、このへらっとした笑顔見てると何か大変そうに見えない)
 七海はコンビニの袋の中から、いわゆる携行食を一箱取り出した。
「七海、まさかその菓子紛いの食いもんが晩メシ?」
 明人があからさまに嫌そうな顔をした。
「…いつ呼び戻されるか分からないから、まともな弁当買っても、しょっちゅう無駄になるんだよ」
 封を切った途端休憩中断で、3時間後には食べれないシロモノになっている。
 そんな事が日常茶飯事に起こるので、七海は、小分けにいつでも食べれるものを買うようになった。
「そんなんじゃ身体持たないっしょ。弁当やるよ。俺は店に戻ったらあるからさ」
 明人が七海の膝の上に弁当箱を置いた。
「もう慣れてるからいいよ。気持ちだけ貰っとく」
 七海は膝の上の箱を返却すべく持ち上げた。
「ダメ。黙って食いな。身体が資本でしょ? 生き物って、身体さえ動きゃ何でも出来るじゃない。てことは、まず、身体がちゃんと動くようにしとかないとダメってことじゃん」
 またもや妙に古臭いような、堅苦しいような台詞が、明人の口から飛び出した。
 そういうもの言いをする時の彼は、さすがに教師の息子と思ってしまう。
 彼は、もしかしたら理解されないまま分かれてしまった父親を、本当は好きなのかもしれない。
「分かった。分かったけど、本当にいつ呼び出されるか分からないんだから、最悪、一口二口食べた途端呼び出されて後は無駄になるかもしれないけど、いいの?」
「残ってたら俺食うし、いいよ別に」
 それはさすがに、申し訳無いような。
 と言うより、やめて欲しい。
「とりあえず、食っちゃえば? それこそいつ呼び出されるか分からないんだろ?」
「じゃあ、まあ、いただきます…」
 何となく言い負かされた気分で、七海は箱の蓋を開けた。
 七海に夕食を提供してしまった明人は、その間手持ち無沙汰となり、窓を開けて煙草を吹かしていた。
 やはり、朝と同じように切れ間無く何本も火を点けていた。
(チェーンスモーカーだな、これは)
 幸い、風向きが良かったのか、車内にほとんど煙は入ってこなかった。
 しかし、彼は、人の栄養状態をどうこう言う前に煙草の本数を減らすべきではないだろうか。
 それにしても、今更ながら不思議なものだ。
 明人は、七海から見ればまるで別世界の人間だ。
 それが、こんな風に会っていたりするのは、どういう縁なのか。
 彼が持ち込む『外』の空気に、どんどん惹かれていくのが分かる。
 病院の外にも、世界はある。
 そんな当たり前の事を、長い間忘れていた。
「ごちそうさまでした」
 呼び出しも掛からず、最後まで食べきることが出来た。
「今朝も思ったけど、食べんの早いね」
 吸っていた煙草をもみ消して、明人は笑った。
「そうかな…普通だろ?」
 時計を見ると、所要時間は10分くらいだった。
 確かに、少々早いかもしれない。
「ま、いいや。ちゃんとお腹一杯になった?」
「まあ、おかげさまで」
「そりゃ良かった」
 そう言うと明人は助手席へ身体を伸ばし、七海の身体に覆い被さってきた。
「えっ、ちょ…何」
 突然の出来事に身動きできないでいると、その間に彼は器用にもシートのリクライニングを倒してしまった。
 そのまま、その手がシャツの裾を捲る。
「一回ぐらい大丈夫なんじゃない?」
 は……!?
 あまりの事に、瞬間、思考停止した。
 七海が凍り付いている間にも、明人の手は次々に服を緩めていった。
「だ…、駄目!! 大丈夫じゃない!!!」
 下衣に手が伸ばされた瞬間、やっと現状を認識した。
 七海は慌ててのしかかる身体を押し退ける。
「えーっ、呼ばれたら止めりゃいいじゃん」
 明人があからさまに不満そうな顔をした。
(…て、そういう問題か?)
「いつ呼ばれるか分からない仕事の休憩中に、こんな職場の目と鼻の先で、しかも車の中でなんか出来ない!」
「…カッタイの」
 明人がつまらなそうに溜息を吐いた。
「…ついさっきまで、人の命に関わってたんだ…無理だよ」
 生死に関わる手術は、初めてだった。
 失敗すれば、先は無い患者。
 そんなものと向き合わなければならない恐怖感。
 そんな事は、十分覚悟出来ていた。
 予想外の恐怖を生んだのは、現代の医療技術そのもの。
 麻酔と人工臓器を駆使すれば、あれほど人体の生命活動は制御出来てしまうものなのか。
 意識レベルはもちろん、呼吸、血圧、心拍数、体温までもが、容易く支配されてしまう。
 そして、まるで模型を組み立てるように切ったり繋いだりするだけで、蘇る生命。
 それも、同じ人間の手で。
 それを自覚した瞬間に感じた、万能感が何よりも恐怖だった。
(本当に、それが万能なら  不本意に命を終わる人なんていない…)
 とてもではないが、そんなものには馴染めないと思った。
 とてもではないが、そんな気持ちを抱えたまま昨夜のような行為に及ぶなど考えられなかった。
「………仕方ないか。昨日と違って、ホントにその気無さそうだし」
 溜息をひとつ吐くと、明人がやっとぴったりくっつけていた身体を離した。
「ごめん…」
 よく考えれば、謝るような場面でもなかったのだが、反射的に謝罪の言葉が口を突いて出た。
「でもさ、七海って実は今の仕事あんまり好きじゃないよね」
「え……」
「だっていっつも息苦しそうだもんな」
 明人は、七海に覆い被さったまま苦笑いした。 
「…………」
 返す言葉が無かった。
 彼は確かに無茶ばかりだけれど、自分で選んだ道を自力で歩いている。
 だから、平穏ではなくとも、窒息したりしないのだ。
「やめちゃえば? お医者さん」
「何…?」
「お仕着せられてやってから息切れすんじゃないの? 他にいくらでも仕事なんかあるじゃない。もっと楽しいこと探してみたら?」
 不敵に笑って明人が言った。
「七海、仕事の話振ると途方に暮れた顔するし、そんなだったらやめちゃえよ」
 そう言った明人の顔が近付いた。
 朝と違って、それはとても静かな動作で、左の頬に僅かに触れて、離れた。
「今度、休みいつ? そっちの休みに合わせるから、ゆっくり会お?」
 弱々しい街灯が、彼の顔がをぼんやり照らし、柔らかい笑みを描き出していた。
(ゆっくり……?)
 休みは休みで、自分のレポートもあれば、恭介の論文も。
 それに、たまにはゆっくりしたい気持ちも。
「…4日後」
 しかし、理性とは別の場所で、勝手に口が動いていた。
 彼の用事が、仕事ではないことくらいは、分かっていたのに。


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