Recollection.19 CHAIN

 午前6時30分。
 定刻通り。
 与えられたロッカー。
 いつも通り、研修医用の薄青い制服を身に付け、白衣に袖を通した。
 これが、日常だ。
 七海は固く目を閉じて、大きく2回深呼吸した。
「七海!」
 背後から名前を呼ばれ振り返ると、そこには第一外科医局長の姿があった。
「恭…渡辺助教授。おはようございます」
 つい名前で呼びそうになって、慌てて引っ込めた。
 誰が聞いてるか分からない。
 出来るだけ、普段接する一般職員には恭介との関係を知られたくない。
 変に気を遣われるのも、胡麻を擦られるのも、面倒なのだ。
 しかし、肝心の恭介があまりそれを頓着しないので、七海にとっては少し頭の痛いところだ。
 七海はこっそり、恭介に気づかれないように、周囲に人けが無いかを確認した。
 幸い、誰もいないようだ。
「呼び方はどうでもいい。昨日、おまえどこ行ってたんだ? 何回連絡しても繋がらないし、家にも連絡してなかったみたいだし」
「あ! ごめんなさい、うっかりしてた! おばさん、心配してた?」
 明人の家に向かった時点では、まさか泊まる事になるとは思ってみなかったので、すっかり家に連絡を入れ忘れていた。
「いや…母さんは別に。『たまにはお友達と羽を伸ばすこともあるでしょう』なんて言って笑ってたけど」
 仕事の不規則さや休みの取り辛さは過保護なほど心配する割に、大叔母は意外とプライベートには立ち入って来ない。
「よかった」
「よくない。何してたんだ、一体」
 全く、恭介の言う通りである。
 ひとつ屋根の下で生活している以上、食事の要不要や外泊に関しては、きちんと連絡を入れるのが礼儀と言うものだ。
 その件に関して言い返す言葉は何一つ無い。
「ごめん、学生時代の友達と、ちょっと盛り上がり過ぎて、そのまま泊まり込んじゃって…」
 この言い訳は少し苦しいか。
 はっきり言って、七海の友人は、ほとんどが同じ病院内でただいま研修中の研修医仲間だ。
 そうなると、昨日飲み会があったか無かったかなんて話は、ちょっと訊いて回ればすぐ分かる。
「…まあ、たまには息抜きもするだろうがな。連絡はちゃんと入れろよ」
 しかし、恭介もそこまでは追及してこなかった。
 七海は、内心胸を撫で下ろしていた。
「次から気を付けるよ。今日帰ったら、おばさんにもちゃんと謝っとく。  それで、恭介さんの用事って何だった? もしかして急用だったのかな」
「急用…までは行かないが、この間から頼んでたデータ整理の進み具合を聞きたかったのと、確認したい資料があったのとで電話したんだ」
「それは…ごめん」
「で、どうなんだ? 進み具合は」
「何とか…今月中にはまとまると思うよ。それで、間に合うのかな」
「十分だ。…ただ、母さんにも言われたからってんじゃないが、無理だったら無理でいいんだぞ。こっちで出来なくもないんだから。ただ、資料の整理は七海の勉強にもなるから、しておいて損はないと思うから任せてるんだ」
 恭介の言葉に、急に肩が重くなった。
 本来、彼は別に七海の助けなど無くても論文を完成させられるのだ。
 彼自身の能力ももちろん、助手だって新卒の研修医を頼らずとも、中堅を顎で使える身分なのだから。
「大丈夫。間に合うよ」
 七海は、機嫌の良い時よりよほどにっこりと笑って見せた。
 本当に疲れている時、
 本当に腹が立った時、
 自然と顔が笑ってしまう。
 嫌な癖が付いたものだ。
「ならいい」
 もちろん、恭介は七海のそんな癖を知らない。
 白衣の裾を翻して、恭介はロッカールームを出て行った。

 これが、日常だ。

 もう、さっきまで身体の底に残っていた熱っぽい何かは、いつの間にか掻き消えていた。


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