scene.14 溺れるもの

 重苦しい沈黙を抱えたまま、時間だけが流れていた。
 朝9時が近づいた頃、遠藤の覚束ない指先が、ビールの入った缶をつっかけて倒した。
 黄金色の液体が無数の気泡を立てながら、フロ-リングの床に広がる。
「あっ、すみませ…」
「あーあ…床はいいけど、服まで濡れてるじゃないか」
 慌てて謝る彼の服も、ビールを被っていた。
 白っぽいブラウスの裾や袖口が、黄色く染まっている。
「すみません」
「いいから、ほら上、脱いで」
 更に謝罪の言葉を重ねる遠藤に、七海は濡れた服を脱ぐよう促す。
「…すみません」
 しかし、彼は力の無い声で謝り続けるだけだった。
 膝立ちの七海を前に、ただ俯いて何度も謝り続けた。 
 すぐに気付いた。
 彼の謝罪は別の方向を向いている。
 今朝の患者やその家族、もっと広い範囲の誰かに向けて発せられたものだ。
「いいから、ほら」
 なかなか手が動かない彼に代わって、七海はシャツを脱がせにかかった。
 アルコールで濡れたシャツのボタンを一つずつ外していく。
 水分の染みた布を、相手の肩から払う。
 重く湿った音を立て、それは床に落ちた。
 七海より少し日焼けした肌が露になる。
 遠藤は、どこか現実感の抜けた虚ろな顔をしていた。
 そこにいるのは、14歳の自分。
 現実に失望する子供だ。
 見つめるべきものを見失ってしまった哀れな目が、ゆらゆらと揺れている。
 同じ傷を内包した目に見詰められているのが、堪らなく痛い。
 回避出来ない現実を消化し切れない。
 飽和状態。
 途方に暮れた後輩の向こうに、14歳のまま時間の止まった自分の姿があった。
 その身体を七海が抱きしめたのは、ほとんど無意識だった。
 勝手に身体が動いたのだ。
 それに対して、遠藤からは予想外の反応が返ってきた。
 彼の両腕が、七海の身体にきつく巻き付いてくる。
 掴えられ、一瞬で七海は自由を奪われた。
 あまりに強い力で抑え込まれたので、本能的な恐怖が全身を走る。
「え、ちょ…っ、痛い!」
 慌てて腕を解こうと身を捻ったが、容易に外させてはくれない。
 更に強い力で巻き付いた腕が、七海の身体を締めつけた。
 しかし、その力の強さとは裏腹に、皮膚に触れる彼の指先は細かく震えている。
 そしてようやく気付いた。 
 遠藤は七海の身体を抑え込もうとしたのではない。
 彼は、ただしがみついただけなのだ。
 ライフセイバーにしがみつく溺水者と同じ。
 救われたかっただけ。
 それに気付くと、恐怖感は溶けて消えた。
 自然に身体から力が抜けていく。
 どうやら七海は、彼がギリギリまで押し込めていたものの蓋を開いてしまったらしい。

 哀惜なのか。
 憤りなのか。
 それとも、恐怖なのか。

 制し切れない感情の奔流が、堰を切って流れ出した。
 さっき吐き出しきれなかった感情が、そこら中に溢れている。
 その中で彼は溺れている。
 しかし、七海にはそこから彼を救い出す力は無い。
 それなら、一緒に溺れてやってもいい。
 そう思った。
 いや、むしろ、溺れたかったのは七海自身の方だったのかもしれない。
 一緒に飲み込まれてくれる誰かを、待っていたのかもしれない。
 しばらくの間、遠藤は無言で七海の身体にしがみついたままだった。
 その間、七海は普段滅多に見ることの無い彼の旋毛を眺めていた。
 七海より、遠藤の方が遥かに背が高い。
 だから、多少頭を下げてもらうことがあっても、旋毛なんかそうは見ない。
 子供みたいに小さくなっている彼の姿が、七海にはとても愛しいものに感じた。
 もともと七海の中で彼の印象は悪くない。
 しかし、それとは別の感情が確かにそこに存在している。
 熱を含んだ感情が、存在している。
 やがて、少し落ち着いたのか、身体を締め付けていた力がゆっくりと抜け、遠藤の腕は静かに解けた。
 身体が自由に動くようになった七海は、腰を落として、遠藤と目線の高さを同じにする。
 彼は未だ呆然としていた。
 その顔にゆっくりと近付いて、口唇を合わせた。
 もし拒否されたら、笑って済まそう。
 そして、居もしない恋人と間違えた振りでもすればいい。
 勘違いと冗談に擦り替えて、明日の朝には何でもない顔で笑えばいいのだ。
 嘘を吐くのは慣れている。
「常盤木先生…?」
 ところが、彼の反応は想像していたものと少し違った。
 そこには拒否も受容も無い。
 遠藤は不思議そうな顔をして、ただ七海の顔を見詰めていた。
 予想外なのだが、それは何だか、却って彼らしい反応だ。
 七海は、相手に分からない程度に小さく笑った。
 そして、重力に任せて、ベッドを背にしている彼の肩に体重を掛けた。
 二人分の身体がゆっくり傾いで、絡まり合いながらシーツの海に転がり落ちる。
 その重みと乱暴な動作に、生成りの布はその面に幾つもの複雑な陰影を描いていた。


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