scene.10 長い夜、永い朝

 搬送から18分。
 拘束当番の胸部外科医、斎藤が到着した。
「常盤木先生、どうですか?」
 穏やかでタフなベテランだ。
 七海からは15才は年上のはずである。
「お疲れさまです。就寝中に申し訳ありません」
「オンコールだからね。ある程度覚悟はしてますよ」
 この人物は、どんな些細な呼び出しを受けても嫌な顔を見せたことが無い。
 七海が尊敬出来る数少ない医師の一人だ。
「状況は良くないです。コールした時点では、救急隊の情報から解離性大動脈瘤ではないかと思ったんですが、実際には肋骨損傷による緊張性気胸と心タンポナーデでした。すぐに胸腔、心嚢共にドレナージで対処、現在、薬剤の投与と輸液を継続的に行ってますが、依然バイタルフラットのままです」
「ちょっと見せてね」
 そう言って、斎藤はモニタリングされている情報と、胸部レントゲンに目を通した。
「…ここまでの処置は間違ってない」
 そう言いながら、斎藤は難しい顔をしていた。
「間違ってないけど、根本的に手遅れだよね。搬送時に既に瞳孔拡散してるし、第一、気胸って肺が破けちゃってそこから洩れた空気が心臓圧迫してるわけでしょ?  それなのに、搬送中の処置見たらバッグマスクでガンガン空気送ってるじゃない。これじゃ、余計悪くなるよね」
 救急隊は完全に心筋梗塞だと信じていた。
 だから、呼吸が止まった時点で同乗の救命士がAEDによる蘇生と、胸骨圧迫…人口呼吸を開始している。
 結局のところ、それが致命傷  とどめだった。
 しかし、それは彼らの責任ではない。
 彼らに診断や、検査の権限は無い。
 例え、方法が分かっていたとしても行使すること自体が違反行為なのだから。
 やはり、診断すら拒否した各医療機関の方に責任の所在はあるのだろう。
「斎藤先生、どうしますか?」
 七海の考え得る限りでは、残されているのは開胸マッサージだけだ。
「常盤木先生はどうしたい? もう、これはどこで線を引くかって問題だけだよ」
 斎藤がいつもは穏やかな顔に苦渋の色を滲ませている。
 開胸マッサージ。
 患者の胸を切り開き、直接心臓に刺激を与えて蘇生させる手技。
 しかし、患者の瞳孔は既に開いており、彼の命の所在がここに無い事を告げている。
 はっきり言って、蘇生の可能性は残されていない。
 院内では、心肺蘇生に対して25分というガイドラインを引いている。
 それは、心肺停止から15分を超えたものは、蘇生の可能性が無いに等しいからだ。
 蘇生開始から既に25分は経過していた。
 エピネフリンを始め、有効と思われる薬剤は全て試している。
 だから、ここで開胸するのだとしたら、それはあくまでパフォーマンスとしてだ。
 受け入れを拒否され続け、それでも最後にたどり着いた病院では出来る事をすべてやり尽くしてくれた   そんな風に思ってもらうためのエクスキューズでしかない。
 そんな理由で、既に眠っている人の身体にやたら傷を創りたくなかった。
「残念だけど、これは  無理…だな」
 それだけ言うと、七海は静かに目を閉じた。
 斎藤も無言で頷いた。
 彼もまた、無意味なパフォーマンスを嫌う一人であった。
「そんな…せっかくここまでたどり着いたのに! 何も出来ないんですか!? 俺たちは何一つしてない!」
 悲壮な顔で、生まれて間もない医師が、七海に訴えた。
「今から何をするって言うんだ? いたずらに胸を開いて、とうに眠っている心臓に穴をふやして、それでお前は満足するのか。そんなもの、自己満足…いや、ただの欺瞞だ。自分に対する言い訳が欲しいだけだ」
 七海がそう言うと、遠藤は言葉を詰まらせ、そのままうつむいてしまった。
 引き際、それがどこにあるかを正確に見極めるのは、確かに難しい。
 けれど、誰かがそこに線を引かねばならない。
  死亡確認、午前5時45分38秒」
 七海の宣告が静かな室内に響いた。
 全員が黙祷する。
 重苦しい沈黙がER内を包む。
(…おつかれさまでした。ゆっくり、休んでください)
 心の中で、小さくそう呟いた。
「田島さん、ご家族に知らせないといけないので、一緒に来てもらえますか。 僕一人より、田島さんにクッションになったもらった方が、よりご家族に受け入れてもらいやすい説明が出来ると思うんで」
 七海の要請に、田島は静かに頷いた。
 患者の家族に悲報を告げる時は、細心の注意を払わなければならない。
 それには、彼女のようなベテランの看護従事者に、患者と医師の間の言葉のギャップを埋めてもらうのが望ましい。
 ふと、七海は背後の研修医を振り返った。
 初めて今の医療の現実に直面した彼は、迷子の子供の様に途方に暮れた顔をしていた。
 かつて、七海も同じような表情で指の隙間を擦り抜けた生命を見送った。
(いや…、僕はあんな真っ直ぐ正面を見てはいなかった…かな)
 本当なら、七海は指導する立場の者として遠藤の無言の問い掛けに応える義務があったのだが、七海は掛けるべき言葉を見つけられなかった。
  田島さん、行きましょうか」
 結局何もフォローしないまま、七海は田島を伴ってERから退室した。

 その時、七海の目の奥には、現実に見えている像とは別のものが映っていた。

 気の遠くなる様な雪景色。
 沈黙する救急車。
 どこまでも白く閉ざされた、絶望。

 遠い過去のリフレイン。


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