3.桜川病院救命救急部/医局  12月15日 PM3:50

 二人が患者家族への説明を終えて医局に戻ってきたのは、時刻がそろそろ夕方に差し掛かろうかと言う頃だった。
「あら、早かったですね」
 医局のドアを開けた瞬間、看護師の田島が驚いた顔で言った。
「ま、とりあえず説明だけはしてきました。田島さんは、入院カルテの作成ですか?」
 田島はデスクの上で、入院患者用の青いファイルに先ほどの患者のカルテを纏めていた。
 病棟に申し送りする為である。
「ええ。ただ、受け入れ科が決まらないんですよ。最悪、うちで引き受けるかもしれませんね」
 自殺企図の可能性のある患者は、どこの病棟も嫌がるのだ。
 何せ、何をやらかすか分からない。
 プライマリーで常に一人は看護師を付けねばならないとなると、どの科でも人的資源の問題が急浮上。
「人的資源…て言ったら、うちが一番厳しいんですけどね」
 冗談めかしにそんな事を言って、七海が苦笑いしている。
「まあ、現段階では精神科病棟にも振れませんものね。仕方ないかしら」
 ベテラン看護師も、主任医師に釣られて苦笑を浮かべた。
「とりあえず、明日には精神科の先生にコンサルタントお願いしてるんで、その結果によっちゃアッチで引き受けてくれるでしょ」
 七海が肩を竦める。
「そうですね。……あら、遠藤先生はどうなさったんですか? 何だか狐に抓まれたみたいな顔なさってますけど」
 七海から要に視線を移した田島が、不思議そうに首を傾げた。
「あ、いえ。別に  
 慌てて要は手を横に振った。
「面接で何かおかしなことでも?」
 田島が、要の顔と七海の顔を順番に見回す。
「コイツ、さっきの面接で毒気抜かれちゃったんですよ」
 七海が要を親指で指しながらおかしそうに笑った。
「そうなんですか?」
「いえ、毒気抜かれたって言うか…、やけにアッサリしたもんだな、と思いまして  
 要は、拍子抜けした顔で頭を掻いた。
 七海と田島が、先の患者の受け入れ科の事で色々思案している間、要の頭を占めていたのは、その患者の母親の事だった。
 母親は、自分の息子が自殺未遂をやらかしたかもしれない  にしては、やけに冷静で、淡々としていた。

『先生方に全てお任せいたしますので、よろしくお願いします』

 七海の説明が一通り終わった後、その母親は別段取り乱す様子も無く、一言それだけを残して帰っていった。
「自分の息子が命を落としていたかも知れないのに、ましてや、自殺しようとしていたかもしれないのに、あんな冷静でいられるもんなんですかね」
 窓際に置かれた簡素なパイプ椅子の背凭れに、身体を預けて、要は天井を仰ぐ。
 留め金部分が抗議する様に、鈍い音を立てて軋んだ。
(いや、そもそも母親は自分の息子が危険な薬の服み方をしていた事を知っていた)
 知っていて、救急隊にも、病院へ着いた後も、言わなかった。
(そんなもんなのか…?)
 医局長が訊き出すまで、それは黙されたまま  
「まあ、今は呆然としているだけかも知れないし、今更驚かない理由があるのかも知れない。  今あれこれ言ってても仕方無いだろ。明日また、今度はお父さんも一緒に来て貰う事になってるから、その後また考えればいいさ。こっちがきちんと管理している限り、今日明日で急変する患者じゃないんだから」
 確かに、服薬による症状ならば、それが代謝されるなり中和されるなりしてしまえば、脳出血や内臓損傷の患者の様な、致死的急変は起こらない。
 七海の言う事はご尤もだ。
(俺だけモヤモヤしてても仕方ないか…)
 要は、いつの間にやら綺麗に綴じられ、デスクの上に鎮座していた入院カルテの青い表紙を、人差し指で軽く弾いた。
 背表紙に、彼の名前が大きく貼り付けられている。

『古賀雄介』

 名前の上に記されるはずの病棟名は、空欄になっていた。
 預かり病棟はまだ決まっていない。
 彼が、自分の命を懸けてまで訴えたかった何かは、今のところ誰にも伝わっていないようだ。
 何となく疲れた気分で、要は溜息を一つ零した。
「それはともかく、遠藤。お前もうすぐERの研修終わるだろ?」
 ふと顔を上げると、七海が要の隣の椅子に腰を下ろしていた。
「あ、はい。年明けですけどね」
 最初2ヶ月の予定で始まったER研修。
 予定の基礎研修が終わった後、そのまま専門研修に切り替え、ERに居座っていた。
 しかし、とうとう専門研修も終わる。
「どうすんの、お前。まだ小児科とか産婦人科とか地域医療とか、必修科目残してるだろ」
 新しく出来た研修医制度のおかげで、内科、外科、救急と、七海の言った3科目は、前期研修医の必修診療科目となっている。
 全て履修するまで、少なくとも半年はERから離れなければならない。
 と言うか、地域医療に至っては、桜川病院からも離れなければならない。
「その事なんですけど  
 七海の問いに答えようとした時、少々勢い良く医局のドアが開いた。
「お疲れさまでーす」
 軽快な足取りで入ってきたのは、先月ERに配属されたMEの崎谷透だった。
 MEと言うのはメディカルエンジニアの略で、正式名称は臨床工学士と言う。
 人工心肺や人工呼吸器など、医療機器の操作や管理を行う技術者だ。
 手術室では、全身管理を行う麻酔医、小沢の補佐。
 それ以外では、ICU、CCUを主に管理するスタッフの一人である。
「崎谷君、お疲れー。つか、何か甘いモノ持ってない?」
 七海が情けない声で崎谷に視線を向けた。
「あれれれ、どしたんですか。甘いモノだったら、冷蔵庫に生チョコ入れてますよ」
 崎谷は、返す手で医局の冷蔵庫からチョコレートの箱を取り出し、七海に手渡した。
 彼は、問えば必ずどこからかお菓子を取り出してくる。
 少々甘いモノ中毒の傾向がある七海と、この崎谷は、医局の冷蔵庫をすぐに甘菓子で占領してしまう困ったちゃんだ。
「助かるー。いや、さっきオンコールで呼ばれるまで寝てたから、まだ何も食べてなくてさ」
 角砂糖よく似た形にカットされたチョコレートを、七海が無造作に口に放り込んだ。
「急な呼び出しでしたしね。ここは、いつもですけど」
 悪気無くそんな一言を放ち、崎谷が笑った。
 皮肉でも嫌味でもない。
 彼は単に素直で正直なのである。
「崎谷君も言うよねー」
 皮肉っぽく笑いながら、七海はまた箱の中のチョコレートに手を伸ばしている。
 確かに、夕べもそんなにしっかり食べていない。
 今日も、ついさっきまで寝ていた。
 確かに、空腹には違いない。
 要もそれは同じだ。
 が。
 甘党の彼とは違って、寝起きの空きっ腹にチョコレートを放り込む気分には、到底なれなかった。
「遠藤先生、仮眠室におかきの袋ありますよ」
 ほどほどにスタッフの嗜好が頭に入っている田島が、要に塩味の食べ物の在処を教えてくれた。
「あぁ、ありがとうございます」
 要は示された場所へ菓子袋を拾いに行った。
 皆、なにかしらここに食べ物を置いている。
 名前でも書いていない限り、それは共同の食物となり、それぞれ勝手につまんでいる。
 田島の言う袋は、枕の横に無造作に放られていた。
 よく見ると、食べカスが周囲に落ちている。
(こりゃ、医局長だな)
 要は、溜息を吐いた。
 どうやら、ここで寝転がりながら、週刊誌でも広げて、このおかきを齧っていた様だ。
 袋を横に避け、要はベッドの足下に置いてあるガムテープで、食べカスを掃除した。
 全く、やれやれである。
 ベッドを綺麗にして、座っていた椅子の方へ戻ると、七海と田島が、最近出来たと言う崎谷の彼女の話に花を咲かせていた。
 どうも初めての彼女らしく、タチの悪い大人たちの際どい質問に、純情な彼は交わすのもままならない様だ。
「遠藤、袋一個取りに行くのに随分かかってたな。そんな遠かったっけ? 仮眠室」
 揶揄い口調で七海が、戻ってきた要を刺した。
「ええ、だらしないオトナのおかげで、とんだ長旅になりました」
 仮眠室とは、この医局の一部をカーテンで仕切って、古いストレッチャーをベッドに仕立てただけの小さなスペース。
 だから、長旅などと言った七海の言葉は、当然単なる皮肉である。
「そう言えば、遠藤先生の彼女ってどんな人なのかしら」
 唐突に、田島がとんでもない矛先を要に向けた。
「は…っ!?」
 要は、椅子からずり落ちそうになる。
「いえ、今ね、崎谷君の彼女の話をしてたんですけど、これ以上突っ込んでも可哀相な雰囲気になってきたので、ターゲットを変えようかと思って」
 田島の言葉に、崎谷が大きく何度も頷いている。
 散々弄られたであろう彼も気の毒だが  
(俺は俺で、そういう話振られても困るんですけど…!)
 嫌な汗が背中で滲むのを感じつつ、要はちらっと七海の顔を覗き見た。
 彼は、まるで他人事の様に何でも無い顔で座っていた。
「それで、どうなんですか?」
 田島が、いつもの穏やかな顔で、問う。
 ただし、逃がさないぞと言う確固たる強引さを以って。
「いや、あの  
「遠藤先生の事ですから、可愛らしい感じの人じゃないですか?」
 崎谷が言った。
「面倒見がよさそうですもんね。年下で、大人しい感じかしら? 意外と亭主関白だったりして」
 田島が崎谷の意見を拡げた。
「あ、いや  その、今は、いません…」
 これ以上話が拡大するのを恐れた要が、やっと捻り出した答えは、そんなものしかなかった。
 そう答えた僅か一瞬、七海がこちらへ視線を向けた  ような気がする。
(いない、はマズかったかな…でもなぁ…いるって言ったら言ったで、しつこく追及されそうだし…)
 それでもやはり、当の交際相手本人の前で、『いない』と言い切ったのは、やはり良くなかっただろうか。
「あら、いらっしゃらないんですか。つまらないわぁ」
 田島が溜息を吐いた。
「あ、じゃあ常盤木先生は? 何だか常盤木先生って私生活が見えない感じですけど」
 崎谷は自分に再び矛先が向かないよう、周囲へ周囲へ話題を振っている。
「僕?」
 突如自分に向けられた切っ先に、七海がきょとんと目を丸くした。
「そうでもないですよ? 常盤木先生は、イイ人出来ると割と分かり易いですもの。昔っから」
 田島が面白そうに笑った。
「そうかなぁ。分かり易いですか?」
 七海が眉を顰めて、首を捻った。
「だって、休日、ちゃんと退勤するようになるから。フリーの時って、医局に住み着いちゃうでしょ」
 苦笑いしながら、彼女は言った。
 そうなのだ。
 今でこそ、オフの日にはちゃんとマンションの自室へ引き上げる七海だが、要が彼の下に付いた頃、下手すると彼は2週間以上帰宅はおろか、病院から1歩も出なかったりしたのだ。
「あ、そうでしたっけ」
「私の勘では、今は  いますね」
 おそらく、桜川病院で彼と一番付き合いの長いであろうスタッフは、胸を張って言いきった。
(田島さん、悪気は無いでしょうが、やめてください)
 顔では笑顔を作りつつ、要の背中は冷や汗でびっしょりだ。
「まあ、いますけど」
 しかし、当の七海は全く素である。
「やっぱり!」
 田島が誇らしげに笑う。
「えっ、えっ、どんなヒトですか!?」
 崎谷は暢気である。
(目の前にいるよ…)
(っつか、)
(頼むからそれ以上追及するなぁっ!)
 笑顔の下で、声にならない叫びが洩れる。
「どんなと言われてもなー。目が二つ付いてて、鼻と口が一つずつ付いてるよ」
 七海が惚けた顔で答えた。
(って、その言い草もどうなんですか…)
 とりあえず、相手は人間ですよ、とでも言いたげな答えに、要は溜息が洩れそうになった。
「そんなんでなくてーっ。あるじゃないですか、可愛いとか優しいとか美人とか  一言でいいですからー」
 ついさっきまで厳しい追及にさらされて半泣きだった崎谷は、今や自らが急先鋒となって切り込んでくる。
(やめてくれよ、もう)
 出来ればこの場を辞してしまいたいくらいだが、それも叶わない。
 最早、笑うしかない要である。
「一言、ねぇ。  一言だけなら、冷たい…かな」

     え。

「冷たいんですか? 常盤木先生の彼女」
 田島が首を傾げて問い返した。
 彼女ではない。
 いや、そんな事ではなく。
(今、何つった!?)
 心臓が縮み上がる一言が飛び出した。
「あ、何て言うか、ちょっとドライ?」
 七海が少しだけ言葉を訂正した。
 が。
 語感が変わっただけで、あまり意味は変わらないような気がする。
 言った本人の顔からは、何一つ読み取れない。
(何で…?)
 反対に、ウザイと言われたら、それは納得が行かないでもないのだ。
(冷たい? 俺が?)
 いつ、そんな風に思われたのだろう。
 全く心当たりが無い。
 まさか、さっき要が『彼女はいない』と答えた仕返しだろうか。
(そんな馬鹿な)
 いくら何でも、そんな馬鹿馬鹿しい。
(冷たい  って)
 今すぐにでも問い質したいが、この場ではそれも出来ない。
 そんな要の動揺をよそに、会話はどんどん脇道へ逸れてゆき、最後には田島とその夫のなれそめ話を言及するほどに転がり続けた。
 もちろん、要の耳にそれらの会話はほとんど届いていない。
(本当は、大事な話があったのに…)
 年明け、研修終了後の事だ。
 研修が明けた後の要の身の振り方について、七海に相談したい事があるのだ。
 要にある提案をしてきた人物がいて、その事を話したいと思っていた。
 それは、研修医としての相談でもあったし、恋人としての相談でもあった。
 しかし、話すタイミングを掴めないまま、1週間が過ぎている。
 今もまた、話そびれてしまった。
(せっかく…七海さんの方からその話振ってくれたのに)
 お徳用500gと書かれたおかきの袋を弄びながら、さっき途中で途切れてしまった会話の事を考えていた。
(なかなか、切り出すタイミングがなぁ…)
 冷たいなんぞと公言されてしまった今となっては、尚の事言い出し難くなってしまった。

 要は、大きく溜息を吐き、窓の外に目を遣った。
 雨は未だ、降り止む気配は無い様だ。


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+++ 目 次 +++

Scene.1 自 殺 企 図

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+++ 目次 +++ 

    本編
  1. 嘘の周波数
  2. Ancient times
    夏祭り SS
  3. 抗体反応
    After&sweet cakes SS
  4. 依存症 [連載中]
    ⅰ自殺企図
    scene.1
    scene.2
    scene.3
    scene.4
    scene.5
    渡辺教授
    空想科学
    疑似科学
    幻覚肥大
    共鳴振動 NEW!
    番外編
  1. 真実の位相
  2. 二重螺旋
    企画短編
  1. 50000Hit記念
    Stalemate!? [完結]

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