scene.13 モノクローム

 桜川病院から駅を挟んで向うはいわゆる高級住宅街というやつで、一気に人けが無くになる。
 私立の男子校が一校あるのを除けば、本当にその一角は閑静な佇まいだった。
 その静かな街並みを、二人は無言で歩いていた。
「あ、ここだ」
 住宅街のど真ん中に一軒、古い喫茶店がある。
 アナベル=リーと言う名のその店は、マスターが一人で道楽半分にやっている、小さな店だ。
「いらっしゃいませ」
 マスターは、二人を窓際のボックス席に通した。
「それで、何?」
 要は、朝日とほとんど接点が無い。
 だから、彼女が一体何の用事で自分を待っていたのか、てんで見当がつかなかった。
「まず、この間のことをちゃんと謝らないといけない、と思って」
 そう言った彼女は、相変わらず生真面目な顔をしていた。
「この間? 何かあったっけ? あ、医局長の本の話?」
 例のエロ本、どこかで誤解が解けたとか。
「違います。それは、別に、全然。その後の、宮本さんの話です。私の巻き添えで、叱られちゃったでしょう?」
 申し訳無さそうに、朝日が要の顔を見た。
「俺、そっちは全然気にしてなかった。気にしなくていいよ、常盤木先生のカミナリなんて2日に1回落ちるから。半年前なんて。1日2回以上落ちてたし」
 何だ、そんなことか。
(律儀だなぁ)
 半月も前のミスを気にしていたらしい。
「でも…」
「それに、俺が叱られたのは朝日さんと別の理由だし。一緒くたに怒られたから、ちょっと分かり辛いけど」
「遠藤先生が気にしないなら、それでいいですけど…。それじゃ、本題に移ります。いいですか?」
 今のは本題じゃなかったようだ。
「はい、どうぞ」
 相手が妙にかしこまった顔をするので、釣られて要も背筋を伸ばしてしまった。
「私は、遠藤先生が好きなんですが、遠藤先生はいかがでしょうか」
 そう告げた彼女の顔は、笑顔でもなければ、恥じらうような顔でもなく、上官に報告でもするような  やはり生真面目な顔だったので、一瞬要はそれが告白だと気付かなかった。
「……は?」
「私と、お付き合いして下さい」
「は!?」
 何で。
 要はこれまで、彼女から敵意を感じたことはあっても好意を感じたことはない。
「朝日さんて、七  常盤木先生が好きなんじゃ…」
 ツルっと、胸につっかえていた一言が出てしまった。
「あー、そうかぁ…。そういう風に思われちゃうんだぁ…」
 朝日が、意外そうな顔になり、それはすぐにガッカリに変わった。
「違うの?」
「…常盤木先生には、いろいろ教えてもらってたんです。で、"遠藤先生は今彼女いますか?"って訊ねたら、"彼女はいない"って、おっしゃってたんで、玉砕覚悟のチャレンジを」
 答えた朝日の顔は至極真面目である。
(何ですと!? ちょっと待て、頭の中が整理できないぞ)
 要はと言えば、思いも寄らない告白に面食らい、返答に窮していた。
 全く、これはどういうことだ。
(彼女はいない、って…。まあ、確かに"彼女"はいないけど)
 七海の返答は微妙過ぎる。
 間違いではないが、誤解を与える。
「…つか、そもそも朝日さん俺のこと嫌いでしょ?」
「えー!? 誰がそんなこと言ったんですかぁ!?」
 朝日は心外だ、という顔で身を乗り出した。
「怒鳴られるし睨まれるし、そんな雰囲気だったけど」
「それは、アレです。好きな人のおしりを蹴っ飛ばしてしまう、乙女心です」
「そんな乙女心、聞いたことない…」
 こうなると、中途半端に"話を聞く"などと答えてしまったことが悔やまれる。
 全くそのつもりもないのに、却って悪い事をしてしまった。
「遠藤先生は、覚えてないかもしれませんが…昔、何度かお会いしたことあるんですよ?」
 そんな事はお構いなしに、朝日は話を続けた。
「えっ?」
「覚えてないですか? 都立西高の、女子バスだったんです。何度か合同練習とか、合宿とかやったんですけど」
「ああ、西高のバスケ部だったんだ!」
 どうりで、女の子にしては背が高い。
 要が高校時代所属していたのは、桜川北高校の男子バスケ部だ。
 桜川西高校は、北高と立地が近く、よく交歓試合や合同練習をしていた。
「まあ、遠藤さんは私が1年の時既に3年でしたから、あんまり顔を合わせたことないですけどね」
 朝日はそう言って苦笑した。
「いや、ごめん。本当に全然覚えてない」
「いいですいいです。一方的に覚えてただけですから。  何度かやった練習試合、うちは1年生がお茶とかレモンとか、そういうものを用意することになってたんですけど、私、試合直前にこかしてダメにしちゃったことあるんです。その時にね、遠藤さんが北高のお茶、分けてくれたんです」
 今までになくにこやかに、朝日がそう言った。
 しかし、そう言われてもなお、思い出せない。
「あはは。覚えてない…ですよね。遠藤さん、満遍なく親切でしたから、とても些細なことだったんだと思います。でも、私は先輩たちにどれだけ叱られるかと思うとすごく怖くて、その時、本当に助かったんです。それだけのことを今まで覚えてただけ」
 困り切った要の顔を見て、朝日はぱたぱた手を振って笑った。
「…いや、本当にごめん。それと、お付き合いは出来ません。これも、ごめん」
 テーブル擦れ擦れまで頭を下げ、謝罪した。
 これと言って、気の利いたセリフも思い付かない。
 こういう場面は不慣れだし、苦手だった。
「いいですってば。最初に言ったでしょ? 玉砕覚悟だって。…って、まぁ、玉砕はともかく、まさかライバルが男の人とは考えもしませんでしたけど。人それぞれなので、そこは触れないでおきます」
「助かります」
 非常に有難い申し出だったので、そこは素直に頭を下げた。
「実は…最初はね、常盤木先生の片想いかと思ってたんです」
 朝日が肩を竦めて溜息を吐いた。
「へっ?」
 反対では。
 朝日の意外な読みに、要は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「でも、しばらくして気付いたんですよ。遠藤さんてばいつも常盤木先生の方ばっかり見てましたもんね。ライバルの視線の方向はもちろんですが、好きな人の視線の先っていうのも、意外と丸見えなんですよ? 知ってました?」
「ぜんぜん…」
 いやはや。
 全く。
 もはや要の想像が及ぶ範囲の話ではなくなっていた。
「つい、悔し紛れにイヤガラセしちゃいましたけど、そこらへんはご容赦を」
 朝日はいたずらっぽく笑った。
(ああ…突き飛ばされたり、あれか…)
 要にも、やっと思い当たるフシが出てきたが、その当初は、よもやそれが自分を対象にしたヤキモチとは思わなかった。
「ま、予定通り玉砕もしたことですし、これ以上こうしていても仕方ないですね」
 そう言って、朝日はスッと立ち上がり、要に支払伝票を渡した。
「遠藤先生、最後のイヤガラセ、させていただきますね」
 彼女は、颯爽と、清々しく、最後にそれだけ言い残して、去っていった。

 モノクロームの思い出を振り切って。


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