scene.11 実習終了

 宮本氏の一件以来、要は朝日に露骨に敵意を向けられる事はなくなった。
 時折は挨拶など交わすようになり、円満な職場関係が築かれつつあった。

 そんな頃、朝日ゆかりの実習は無事終了日を迎えた。

「1ヶ月間、お世話になりました。こちらで学んだことは忘れません! ありがとうございました!」
 深々と頭を下げる朝日に、スタッフは激励の拍手を送った。
「がんばれ。消防の試験落ちたら、うちで拾ってやるからな」
 医局長が彼女の肩を叩く。
 彼女はこれから救急救命士の国家試験を受け、その後消防隊に入るための公務員試験を受ける。
 それに合格しても、今度は消防学校でまた次の勉強が始まる。
 長い道のりだ。
「落ちませんっ! というよりも、桜川病院って救命士募集してないじゃないですか!」
 朝日は頬を膨らませた。
 どっとスタッフから笑いが起こった。
「4週間お疲れ様。次は国試、頑張って」
 七海が握手すべく彼女に手を差し出した。
「あ…はい! 頑張ります」
 朝日が力強くその手を握り返す。
 そう言えば、宮本氏の一件以来、朝日は七海に過剰な質問攻撃をしなくなった。
 どういう心境の変化が彼女の中に起こったのか、推し量ることは出来ない。
「では! 朝日ゆかり、これにて実習修了、退室させて頂きます!」
 びしっと敬礼した後、彼女は医局を退室していった。

 嵐のような1ヶ月が幕を閉じた。

 ちょうど、日勤の終わる時間帯だった。
 朝日を見送った後、準夜勤の者はその勤務に就き、日直の者は帰り支度だ。
 真夏の日は長く、夕方とは言え、まだまだ外は明るい。
「常盤木」
 医局長が七海を呼び止めた。
「はい?」
「じゃあ、今日でコレ返すぞ」
 要は白衣の襟足を掴まれ、七海の前に差し出された。
「ああ…長期間ウチの若い者がご迷惑をおかけ致しまして」
 七海は要の袖を引き寄せる。 
「いえいえ。常勤の少ない3班、助かりましたとも」
 医局長が笑った。
 こっそり、七海が要の手の甲を抓る。
「えっ、あ…1ヶ月間お世話になりました」
 要は、慌てて頭を下げた。
 つい気安くなってしまうが、相手は医局長だった。
「うんうん。まあ、また今後もこういう班替えが無いとも限らないし、その時はよろしくな。一ヶ月間お疲れさん」
 首の骨をパキパキ鳴らしながら、医局長は医局から退室した。
 おそらく、煙草でも吸いに行くのだろう。
「七海さんも、今日は日直でそのまま上がりでしょ?」
 窓枠に腰掛け、七海はぼんやり外を眺めていた。
「え? ああ…まぁ」
 煮え切らない返答が返ってくる。
「一緒に帰りませんか?」
 七海は教官業務完了のボーナスで、明日はオフのはずだ。
 要のシフトはオフではないが、当直勤務なので今夜はのんびり出来る。
「ああ…いや。ちょっと報告書が溜まってるから、書いてから帰る。だから、遠藤は先帰れ。何時になるか分からないし」
 七海らしくない、歯切れの悪い喋り方だ。
 要と目を合わせようとしないのもおかしい。
 視線はずっとあさっての方角、窓の外ばかり見ている。
「そう…ですか」
 これを逃すと、またしばらくシフトの関係で入れ違いが続くのが分かっているだけに、残念だった。
「じゃあ、お先に失礼します」
 要は自分の白衣と手術衣をリネン籠に放り込み、ロッカーの方へ身体を向けた。
「遠藤」
 後ろ髪が引かれるその背中を、七海の声が呼び止めた。
「はい」
 ドアの前に立ち、後ろを振り返る。
 今度は、相手も要の方を向いていた。
「こないだのメモ、まだ持ってるか?」
 恐る恐るの態で、七海が質した。
「こないだの…メモ? って、ああ」
 一瞬考え込んでしまったが、すぐにそれが何を指しているか、思い出した。
 七海のマンションの、解錠パス。
 捨てる訳が無い。
「あれは、好きに使っていい」
 素っ気ない口調で、七海がそう言い捨てた。
(好きに…って  
 いつでも入っていい、と。
「そうでもなきゃ、そろそろ難しいだろ。色々」
 軽々しく合鍵を作るような人間ではない事くらい、分かっている。
 その彼が、必要だと認めた"鍵"。
 要が一人で出来ることが増えるにつれて、別行動も増えていく。
 携帯を切っている時間も長く、私事の連絡は困難。
 七海が難しいと言ったのは、そのことだった。
「ありがとうございます。早速、使わせて頂きます」
 先に帰って待ってると言う代わりに、そんな言葉を使った。
 いくら皆仕事でバタバタしているとは言え、誰が聞いているか分からない場所だからだ。
 あまり私事に纏わる露骨な言葉は口に出せなかった。
「ん…。じゃ、また後で」
 要の言葉に対し、小さく手を振って応えた七海の顔は、笑顔なのに何故か曇っていた。
 その表情が気懸りではあったが、それも後で訊ねれば良いか、と、今度こそ要は医局を後にした。


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